20170728報告1.意識の量/「哲学」は誤訳?
今日は8月3日。
7月28日にあった講演会の報告です。
講師は明治大学文学部教授の齋藤孝先生。
テーマは「日本語力とコミュニケーション力」でした。
印象に残ったことを箇条書きで書いていきます。
〇「意識の量を増やす」それが教師の役割
「意識の量を増やせ!」という本を私は書いていると齋藤さん。
※本当か?あまりにあっさり言ったので、少し疑って調べてみました。
出版されていました。
「『意識の量』を増やせ!」(齋藤孝著/光文社)
〇「意識の量を増やす」とはどういうことか?
ボ~っとさせない。そんな表現を齋藤さんは使っていたと思う。
授業を受けていても、ボ~っとしていては、何も身につかない。
〇自分で言ったこと、しゃべったことは覚えている。
だから、授業では大事なことは反復させて言わせる必要がある。
〇授業はもっとスピーディであるべきだ。
〇素直さがあると伸びる。だから小3・4年生は伸びる。
〇授業中(講演中)誰も寝させない。アイコンタクトを誰とでもとり続ける。
教室に40人がいたら、40人ととり続ける。
※やるからにはそうする。その心意気がいいなと思う。
見習いたい。自分は遠慮している。
〇人の話は面白そうに聴く。多くの話は面白くないけど、そうする。
それが礼儀だからだ。
※こう言い切ってしまうのがすごい。いや、でも納得する。
この態度は相手も自分も幸福にすると思う。
※「愛知学」という言葉が出てきた。「哲学」という訳はおかしいとも言っていた。
どういうこと?
これは「philosophy」の訳についてだったと思う。調べてみた。
次のサイトが参考になりました。
一部引用します。
今回は「哲学」豆知識。木田先生の受け売りである。
高校時代に日本史の授業で、「哲学」という言葉は
明治初期に西周がphilosophyの訳語として編み出したと教えられたが、
木田先生によると、これは明らかな誤訳なんだそうである。知らなかった。
英語のphilosophyは古代ギリシヤ語のphilosophiaから来ている。
philosophia はphilein(愛する)という動詞とsophia(知恵、知識)を
くっつけた合成語で「知を愛すること」、
つまり「愛知」という意味なんだそうである。
しかし、これは、「知的好奇心が強い」とか「知識欲が旺盛」
というような意味にしか過ぎず、これを限定的な特殊な意味で使ったのが
ソクラテスだという。
プラトンの対話篇「饗宴」の中で、ソクラテスは独自の愛の理論を展開している。
<愛するものは、その愛の対象をなんとか自分のものにしようともとめます。
ということは、知を愛しもとめる者というのは、
まだ知(知識)をもっていない、もっていないからこそ、
ひたすらそれを愛しもとめるのだ、と言うのです。
知をもっていないことを無知と言います。
つまり愛知者は無知であり、無知だからこそ知を愛しもとめるのだ、
というわけです。>(「反哲学入門」P32)
いわゆる、「無知の知」というやつですね。
で、これを受けて、江戸時代に「蕃書調所」で日本最初の哲学の講義をした西周は、
philosophyを「希哲学」と訳したらしい。
philein(愛する)=希、sophia(知恵、知識)=哲、でつじつまは合っているのだが、
しかし、明治になって西は、なぜか「希」を削ってしまったのである。
なんで削ったのかね。
で「哲学」だけが残ったと。
そんなことを知ると、「愛知学」とか「希知学」としておけばもう少し、
なじみやすかったのではないかと悔やまれる。
この辺りのことを、齋藤先生は「『哲学』という訳はおかしい」と言ったと想像します。
なるほど、こうして「哲学」という言葉は生まれたのか。
〇その上で「知的好奇心」は大事だと齋藤先生。
※講演中に一度だけ「知的好奇心」を登場させた。
やっぱり「知的好奇心」を旗印に掲げて生きていくことに自信をもとう。
(つづく)
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