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2017年4月19日 (水)

自分なりの授業方法ができているのか?

 

今日は4月19日。  

ある冊子を読んでいたら、野中信行氏のブログ「風にふかれて」

引用されていました。

次の3つの投稿です。

風にふかれて なぜ多くの教師は授業がうまくならないのか?(1)

風にふかれて なぜ多くの教師は授業がうまくならないのか?(2)

風にふかれて なぜ多くの先生は授業がうまくならないのか?(3)

風にふかれて なぜ多くの教師たちは授業がうまくならないのか?(4)

風にふかれて なぜ多くの教師は授業がうまくならないのか?(5)

2015年12月の投稿です。

インパクトの強い内容です。

 

多めに引用していきます。

  

初任者研修で、初任者に

「あなたたちは毎日授業を続けていれば

そのうちに授業がうまくなっていくと思っていませんか?」

と問いかけることをよくした。8割方の初任者は、頷く。
 
そのように思っているのである。

授業の経験を積み重ねれば授業はうまくなっていく。

常識的に考えれば、誰だってそう思うはずである。
 

「幻想です!」と答える。

そんなことはありえない。現実がそうなっている。
 
毎日5,6時間授業を積み重ねている

中堅、ベテランのほとんどがうまくなっていない。
 
私は、ここ数年間に700人近くの先生たちの授業を見てきたが、

断定的にそう言い切ることができる。
 
どうしてなのか?

  

  

多くの教師は自分が授業がうまくなっていっているのかどうか、

そんなことを考えていない。

忙しさに紛れて、目の前の蠅を追っているだけ。
 
研究授業の時だけ、かろうじて自分の授業のことを考える。

みんなに見られるからである。

  

   

とにかく、子供たちの多くが意欲的に発言したり、

話し合いをしたり、討論をしたりする姿、

それを生み出す教師の考えられた「発問」に惹きつけられた。
 
私も、このような授業を作りたいと願ったものである。

ただ、そんな授業が見られることはまれでしかなかったが…。
 
私は、今これらの授業を「ごちそう授業」と称している。

すぐにはこのような授業はできない。

教材研究を数多くこなし、子供たちにも、

このような授業ができるように練習授業を積み重ねなければいけない。

しかし、このような授業は毎日できない。

公開の「研究授業」用の授業と言ってよい。

若い頃には、毎日このような授業をしたいと願うこともあったが、

所詮そんなことはできない。日常には耐えられないのである。  

   

  

教師たちは、日頃やらない特別な授業を作って研究授業に臨む。
 
だから、「日常授業」ではやっていない特別な授業を

お互いに見せ合って、検討し合っているわけである。
 
終わったら、「ああっ、終わった!」いう感覚。

1年間のすべてが終わったような感覚になる。
 
そして、明日からまた研究授業とは違う、

いつもの「日常授業」が始まる。

研究授業は特別、日常授業はまた別のもの。

これを何十年と続けている。

  

    

なぜ多くの教師の授業がうまくならないのか。  

その1つの答えが、

学校には授業技量が向上する方法論がないのである。  

だから、多くの教師は、ほとんど授業がうまくなることはなかった。  

結局、今までの「授業研究」からは教師の授業技量は

上がらなかったということが分かるのである。

  

   

私は、その人間の真価を見極めるには、

その人の日々の生活スタイルを見ればいいと考えている。

どんなにうまいことを話したり、

うまいことを書いたりするところには、その人間の真価はない。  

その人が日々をどのように生活し、どのように過ごしているのか、

そこにその人の価値や力量が表れる。  

同じように、その教師の力量は、日々の子ども達への関わり方や

「日常授業」の仕方に表れる。  

うまいことを声高に主張したり、うまい授業を提案したりすることに、

その教師の真価は表れない。ましてや「研究授業」などには表れない。  

日々の教師の生活スタイルの中に、その真価が表れるのだ。

  

   

教師の日常の授業スタイルで気になっていることがある。

多分、多くの教師たちが行っている日頃の授業は、

「ぶっつけ本番授業」になっているのではないかということである。  

これは私がつけたネーミングである。

何の教材研究も、何の授業準備をしないままに教室へ行き、

「今日は何ページからですか?」と問いかけて、授業を始める。  

もちろん、授業に慣れているから、いつものパターンで進められる。  

時間がないのである。授業準備をする時間もなかなか確保できない。

だから、そうせざるをえない場合もある。  

しかし、慣れてきたら毎回このようにする。  

横でちらちら赤刷りの指導書を見る。  

指導書に沿って進めていけば、なんとかなる。  

子供も何の文句を言わない。  

ただ、つまんなさそうにはしているが……。

こういう授業スタイルで進めていないだろうか。  

これに慣れてきたら、授業準備する時間があったとしても、

ほとんどやらなくなる。  

特別に教材研究するのは、研究授業の時だけだ。    

でも、これはとても危険なことだと、自覚しておかなくてはならない。

  

  

なぜ危険か?

ここまで読んで、なぜ危険なのか想像できずに、つづきを読みました。

  

  

多くの教師が授業がうまくならない原因の2つ目は、

ここにあると私は考えている。

いつも指導書に引きずられた授業をしている。  

指導書なしでは授業がなかなかできない。    

こうなっていないだろうか。  

初任者ならば当然こうなるだろうが、

もう中堅やベテランになっていてもこれである。

なぜ、こんな授業が危険なのか。

いつまでも自分なりの授業スタイル(授業法)が

作り出せないからである。  

自分なりの授業法がなければ、

「日常授業」を豊かにしていくことができない。    

教師はどんなに忙しくても「日常授業」が

うまく展開されていればなんとかがんばっていけるのである。  

でも、それがうまく展開できなければ、

「日常授業」が雑務化してしまう。     

できればやりたくないという気持ちで授業をしても、

うまくいくはずがないではないか。  

指導書に頼り切る生活を、

できるだけ早く止めていかなければいけない。  

自分できちんと授業を組み立てる力量を

身につけていかなくてはならない。  

これは当たり前のことであるが、

それが多くの教師たちの常識にならなかった。  

だから、いつまでも多くの教師の授業がうまくならないのである。

     

  

キーワードは「自分なりの授業スタイル(授業法)」

「日常の授業を豊にする」でしょう。

頭を使っていきたい。

毎日に少しずつでも頭を使って授業を考えていこう。

今日は音読指導を頑張った。

  

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