「英雄たちの選択 徳川慶勝」その2 江戸城無血開城の後の受け取りは尾張藩
今日は1月8日。
前投稿に引き続いて、
昨年10月13日に放映された番組
「英雄たちの選択 明治維新 知られざるデザイナー
~尾張藩主 徳川慶勝~」より。
徳川慶勝は、新政府軍と江戸幕府の間に位置していた人でした。
新政府軍から見たら、江戸幕府は「悪」
江戸幕府から見たら、新政府軍は「悪」
お互いに「悪」と見ていると、結果的に戦ってつぶれてしまう。
だから相手の立場に立って見て、声をかけられる人が必要。
そういう人は、歴史に名を残さないかもしれないけど、重要。
今の時代も、そういう人が登場することが必要なのでは。
そうゲストのひとりである真山さんは言っていました。
これまた勉強になりました。
新政府軍と江戸幕府の間にいた慶勝さんについて、
磯田さんも言っています。
徳川側の人間だと、新政府の命令は従わないけど、
尾張徳川家(慶勝)に言われると聞こうとすると。
間に入ることでスムーズにいくのです。
ゲストの岩下さんが言います。
岩下:江戸城無血開城のときも、受け取りは尾張藩でした。
これはビックリ。
そうだったのですね。
新政府軍に明け渡されたとばかりに思っていた江戸城ですが、
その江戸城を受け取ったのは尾張藩だったんだ。
徳川側としても、それだったらOKだったのでしょう。
ソフトランディングになったのです。
岩下さんは、幕末は人を早く老けさせる時代だと評していました。
あまりにもいろいろなことが速く進んでいったからとのこと。
それが徳川慶勝4兄弟の姿にも出ているとのこと。
この4兄弟とは。
(調べると、もっと兄弟はいたようですが、
下記の4名が”高須4兄弟”と呼ばれていたようです)
慶勝さんが撮った写真で紹介します。
(皆、尾張藩の出身だったのですね。
特に意外だったのは、2番目の弟)
容保は尾張藩だったのですね。
新選組を率い、会津で戦った藩主です。
定敬は容保とともに新政府軍と戦い、
五稜郭の戦いにも参加しました。
茂徳は、捕えられた容保、定敬の処分を寛大にしてくれるように
新政府に嘆願しました。
激動の時代を生き抜いた4兄弟の姿。
明治時代になって、4人で撮影した姿です↓
この姿を見て、何歳に見えますか?
予想してください。答は次の投稿で。
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