蔚山倭城での籠城戦
今日は9月17日。
前投稿に引き続いて、
「解明!片岡愛之助の歴史捜査 真田丸への道②
秀吉チルドレンの分裂の真相を追え」(2016年9月8日放映)より。
石田三成と加藤清正の仲を決定的に悪くした戦いとして、
慶長の役の「蔚山(うるさん)倭城(わじょう)での戦い」
が紹介されました。
全く知らない戦いでした。
興味を持ちました。
番組から、この戦いについて書いてみます。
豊臣秀吉は、朝鮮出兵の文禄の役後の停戦中も、
朝鮮半島南部に次々に日本式の城をつくらせました。
その城のことを、朝鮮側が「倭城」と呼んだそうです。
現在でも、その城跡が30ほど残っているそうです。
明との交渉が決裂に終わり、
再び朝鮮との秀吉との戦いが始まりました。
慶長の役と言います。
その頃できたのが、蔚山倭城。
ここは、慶長の役の中で、最も激戦が行なわれた場所でした。
蔚山倭城での戦いを描いた屏風が残っていました。
戦いは慶長2年12月22日に勃発。
直後に、加藤清正が蔚山倭城に入りました。
5万7千人の明・朝鮮連合軍に包囲され、
蔚山倭城の秀吉軍は、籠城戦を強いられました。
充分な兵糧や水の蓄えがないままの戦争突入でした。
極寒の中の飢餓地獄。
軍馬を殺して肉を食い、壁土を水に浸して口にし、
小便も飲んだそうです。
援軍はなかなかやってこず、
加藤清正は死を覚悟しました。
慶長3年の正月。清正は次のような書状を書きました。
その時、黒田長政ら援軍がやって来ました。
援軍を見て、明・朝鮮軍は倭城に総攻撃をかけましたが、
陥落させることができず、援軍に退路を断たれる前に退却しました。
加藤清正は、一度は死を覚悟しましたが、生きのびました。
しかし、この戦いが、三成と清正の間の亀裂を
表面化させたそうです。
異国で戦うことの悲惨さ、苦しみ、そして無意味さを味わった
最前線で戦う武将たちは、「戦線縮小案」をまとめ、
秀吉に具申しました。
ところがこれに激しく異を唱えたのが、
目付として同行していた、福原長堯(ながたか)。
石田三成の妹婿と言われる福原が、
「戦線縮小案」は秀吉の意に背くものとして非難しました。
さらに、蔚山倭城の戦いで、敗走する明・朝鮮軍を、
黒田長政ら援軍が追わなかったことも非難しました。
その結果、黒田ら武将の領地は削られ、
その一部は福原に渡りました。
さらに、厳しい籠城戦を戦いぬいた加藤清正まで、
秀吉から厳しい叱責をされました。
福原長堯の報告が、秀吉をそうさせたようです。
この時、加藤清正らは、
福原長堯そして石田三成に恨みを持つようになったというわけです。
福原長堯はどうなった?
調べました。
関ヶ原の戦いの際には、西軍に加わり、大垣城を守って戦いました。
敗れてとらわれて、助命嘆願もしたが、
東軍の武将に恨みを持つ者が多く、石田三成の縁者でもあったので、
自刃させられました。殺害されたという説もあるそうです。
※参考:Wikipedia
蔚山倭城跡については、ここが参考になりました↓
3連休の初日は、こんな勉強ができました。
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