正岡子規の選択/嫌なことを上回る好奇心を満たすもの
今日は7月30日。
前投稿に引き続いて、
7月21日放映の「英雄たちの選択 生きた証か 見果てぬ夢か
~近代文学の祖 正岡子規の選択~」より。
明治29(1896)年、
28歳で「余命わずか」という宣告された正岡子規。
子規の選択は2つ。
【その1】
生きた証を残す(写生句の普及)
【その2】
見果てぬ夢へ踏み出す(日本語の革新)
どちらを選ぶか?
前投稿では斎藤環さんの回答でした。
今回は磯田道史さんの回答を聞き書きします。
磯田さんは【2】見果てぬ夢へ踏み出す(日本語の革新)でした。
聞き書きします。
僕、2に決まってますよ。
「見果てぬ夢」に決まっているじゃないですか。
何かね、ここまでで死にますよって言われたら、
何か好奇心を満たしてくれるような新しいことを見つけないと、
元気も出ないし、生きているって思わないんじゃないですかね。
私は、新規探索性というかいろいろなことをやりたい、
「武士の家計簿」くらいで止めとけばいいのに、
こんな司会なんか引き受けちゃったりね。
止めときゃいいと自分でも思うんですけど、
何か元気が出るんですよ。変わったことをやっていると。
たぶん子規も同じように考えたんじゃないかなあ。
死は嫌ですよ。嫌なんだけれども、嫌なのに生きていけるのは、
それを上回る好奇心を満たすものがあるから、
生きてかれたんだと僕は考えるんですよね。
ふと思います。
「死」ではないけど、「退職」が近いことを感じる年になりました。
この時期、新しいことをやりたいという気持ちが高まり、
その一つで、タブレット端末を日々いじくっています。
タブレット端末を教育で活かせないかと考え、ささやかに動いています。
この1学期は、特別支援主任会の研修での
「夏の見学会」の担当を引き受けました。
どこを見学するかが自分中心で決められる魅力がありました。
「冬の研修講座」も担当を引き受けました。
こちらも講師を自分中心で決めて呼べます。
仕事は増えますが、人との新しい出会いもあって面白いことです。
どこか新しいこと、変わったことをやりたい気持ちが、
そのような仕事を引き受けた理由だと今さらながら思いました。
(声をかけてくれたことにも感謝です)
斎藤さんの回答にも共感できましたが、
自分は磯田さんの言うように好奇心を発揮して、
嫌な気持ちを吹き飛ばしたい、
今の自分の生きっぷりを通したいです。
磯田さんの発言は、いつも印象に残ります。
さて正岡子規はどちらを選んだか?
今日の晩にブログに書きます。
今日もいろいろ動く!
久しぶりのコメント 日々生きる自分。余命を意識することもあるこの頃。 諸行無常 無常迅速 西洋の哲学者が「あれかこれか」と生きる上での選択は二者択一だと究極の選択を日々しながら人は生き続けるんですね。
投稿: まこちゃん | 2016年7月30日 (土) 08:51
え、余命を意識することも!
まだまだ早いですよ。
二者択一は、面白そうなのを選びたいですね。
さあ今晩は何をやろう、何を後回しにしよう。
投稿: いっぱい道草 | 2016年7月30日 (土) 20:24