このやり方なら道徳ができそうだ 前編 深澤久先生
今日は3月30日。
季刊誌「教師のチカラ 2016年冬号」(日本標準)からの引用。
深澤久先生の文章からの引用。
2007年3月、首相官邸で行われた「教育再生会議分科会」に
オブザーバーとして私は参加していた。
そこで打ち出された「道徳の教科化」は半年後の
安倍首相退陣後に”姿を消し”た。
だが第2次安倍内閣の発足と共に、
「道徳の教科化」が”息を吹き返”し、小学校は2018年度・
中学校は2019年度から、「特別の教科 道徳」
(以下、「道徳科」と表記)が全国で実施されることとなった。
(中略)
賛否両論があるにもかかわらず、”問題点・不明点”が
あるにもかかわらず、いわばトップダウン(=上意下達※)で、
全国の小・中学校で「道徳科」を行うことになるのです。
だからと言って、”この期に及んで”「道徳の教科化反対」と
主張するだけでは、何の意味もありません。
少なくとも、実践者のスタンスではない。
週1単位時間の「道徳科」は、
ただの”器”でしかありません。
重要なのは、その”器”の中に「何を入れていくか」です。
子どもたち(の人生)にとって意義ある中身を”器”に入れていくか、
それとも、わかり切った事や”夢物語”的な
ツマラヌ中身を入れていくか、
これが「道徳科」の存在意義を決定づけることになります。
子どもたち(の人生)にとって意義ある”器”の中身を創り出す、
これこそ、教育に携わる実践者のスタンスなのです。
(11p)
深澤先生は”問題点・不明点”として3点上げています。
①「教材」の自由度
②子どもたちに対する「評価」
③授業の「評価」
そのうち①を引用します。
文部省の検定を受けた「教科用図書」(以下「教科書」と表記します)
が作成されるようですが、この「教科書」を主教材として
使用しなければダメなのか?
教師が自ら”発見・作成”した素材を教材化(=教材開発)し、
実際に授業をすることができるー
「教科書」の教材に縛られない自由度があるのかどうか。
(11p)
教材の自由度は重要なことです。
自由度がある方がいいかというと、
教師の教材開発の力が必要なわけで、
それはそれでたいへんなことだと思います。
しかし、次のページをめくると、
愛知教育大学教授の鈴木健二先生が
「このやり方ならできそう」という提言をしてくれていました。
その文章の引用を次の投稿でします。
(つづく)
※「上意下達」・・・この漢字四字熟語を出そうと「じょういげだつ」
とうっても変換できず。なぜ?と思って調べたら「じょういかたつ」
でした。久々見た四字熟語で、読みを間違っていました。
もし変換機能が先回りして「じょういげだつ」でも変換してくれていたら、
間違ったままでしょう。感謝。
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