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2014年9月7日

2014年9月 7日 (日)

「肢体不自由児たちの学童疎開」引用8/当時の上山田村村長

  

今日は9月7日。

  

8月9日放映の「ETV特集 ”戦闘配置されず”~肢体不自由児たちの学童疎開~」から。

  

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学童疎開が行われて、今年で70年になります。

光明学校の卒業生が上山田での疎開生活の思い出を絵本にして発表しました。

上の写真は、絵本の出版記念会。

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絵本の名前は「千曲川のほとりで~私の学童疎開・上山田ホテル~」(まごころの集い社)

作者は今西美奈子さん。

  

さっそく買って読みました。

疎開先の子どもたちの様子がよくわかりました。

また、松本校長先生となかなか出会わなかった村長さんのことも書いてありました。

  

学芸会 クリスマス お正月 ひな祭りなどのイベントには、

食糧難にもかかわらず必ず、先生や保母さんの

心づくしのご馳走が夕食膳にに並びました。

そしてホテルのオーナーであった村長さんや奥様たちも、

それらの行事に参加してくださるのでした。

   

どうも、番組のせいで?村長さんのイメージはあまりよくありませんでした。

でもこの絵本を読み、村長さんの優しい顔の絵を見て、

すっかりイメージが変わりました。

上山田ホテルのサイトを見ました。→上山田ホテル 

そして引用します。

 

上山田ホテルの創業について。

千曲川の河原に忽然と姿を現した、戸倉上山田温泉、

当時の川の流れの間を挟み戸倉温泉は

明治26年(1893年)、上山田温泉は明治36年(1903年)に源泉が開かれました。

日本では初めて近代的な手法でボーリングを行い、

沸き出でた温泉でした。 上山田温泉掘削の仲間を募り、

資金を集め推進したひとりが若林又三郎でした。

又三郎は上山田温泉(株)の社長を務め、

共同浴場「亀乃湯」を開き、その門前に茶屋・旅館の温泉街が出現しました。

近隣の温泉客を集め、また明治45年(1912年)には、

信越線戸倉駅が開通し遠来のお客様も戸倉上山田温泉に多くお越しになるようになりました。

又三郎の息子、正光・正春がいました。

正光は上山田温泉経営に当たり、の2号源泉に新たな「亀の湯」が建設され

その正面を温泉の本通りが開かれました。

アメリカ帰りだった正光は、「アメリカにはホテルという人々が集まり・宿泊する施設がある。」

との考えから、弟の若林正春を初代として上山田ホテルが創業されました。

以来4代にわたり「湯元 上山田ホテル」として営業をし、本年9月に創業90周年を迎えました。

  

  

この文章からだと村長さんは若林正春さんかな?

  

検索したところ、次のサイトに行きつきました。

  

晴天そら日和 2010年08月15日18:22 第65回「終戦の日」次世代に語り継ぐこと、。。。

  

  

ここでも良い文に出会えました。

  

49年4月、光明学校は空襲で焼失した東京都世田谷区の校舎再建にこぎつけ、

その翌月、集団疎開がようやく終わった。

周辺の旅館は終戦間もないうちに疎開児童が東京へ帰り、営業を再開。

進駐軍が来てキャラメルを配り始め、復興が進むと一般客も訪れるようになり、

増築・新築するところも相次いだ。

静かだった温泉地は歓楽街へと変わっていった。

しかし上山田ホテルは光明学校の疎開が終わった後も、

すぐに客を取ることはできなかった。

教室として使われた大広間や居室だった客室は、畳がすり切れて土台まで損傷し、

柱も傷だらけになっていたからだ。

元気盛りの子どもたちは足に金具の装具をつけ、松葉づえをついてホテル内で遊んだ。

当時の主人、若林正春さん(故人)は、そんな姿を見てもとがめることはなかった。

おいで現在同ホテル会長を務める恒正さん(84)は当時、

正春さんに建て直しを進言したことがあった。

正春さんは「お前が経営するようになったら、きれいにしたらいい」と

畳や障子を新しくした程度だったという。

上山田ホテルは77年に全面改築された。

建物はすっかり新しくなったが、子どもたちを見守っていたヒノキの大木は残っている。

  

  

当時の村長さんは、若林正春さんで確実のようです。

一度お顔を拝みたいです。

そのためにも、いつか上山田ホテルに泊まりたいですね。実現するぞ。

  

  

絵本は通販で買いました。

その時に本にはさんであった記事の写真を最後に載せます。

20090101_00000042

   

以上で、8月9日放映の「ETV特集 ”戦闘配置されず”~肢体不自由児たちの学童疎開~」の

引用を終了。

おじろわしさんのブログには大変お世話になりました。

みなと横浜みなみ区3丁目 「”戦闘配置”されず~肢体不自由児たちの学童疎開~」【NHK ETV特集】全編文字起し

  

学びの多かった番組でした。

「肢体不自由児たちの学童疎開」引用7/昭和54年肢体不自由児の義務教育化

  

今日は9月7日。

  

前投稿のつづき。

8月9日放映の「ETV特集 ”戦闘配置されず”~肢体不自由児たちの学童疎開~」から。

  

  

昭和20年8月15日。終戦。

ほとんどの疎開児童は、翌年の3月までには親元に戻りました。

ムム?3月?・・・半年以上かかっているぞ。

しかし、光明学校はさらに遅い。

校舎は焼けて、再建の目途がたっていなかったからです。

松本保平校長たちは議論を重ねて、

上山田村で光明学校を引き続き経営することになります。

50人の子どもたちのほとんどが残りました。

   

Rimg4411 戦後も宿泊していた上山田村村長が経営する旅館。

  

疎開が終了したために、補助金がカットされましたが、

松本校長の尽力で国からの補助金が再び出るようになりました。

  

光明学校の校舎が世田谷にできたのは、昭和24年でした。

その年の5月、子どもたちは新しい学校に戻りました。

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光明学校の関係者の戦争が終わりました。

      

この後の松本校長の活動を、番組は追っています。

それは戦後の肢体不自由児、あるいは特別支援教育の歴史であり、

興味深いものでした。

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ナレーターの話:
 

終戦翌年の昭和21年、新憲法が公布され戦後の教育改革が進みます。

昭和22年、中学までの教育を義務化する新しい制度が始まりました。

しかし、肢体不自由児の義務教育化は実施されないままでした。

松本校長は再出発した光明学校で、肢体不自由児の教育の充実を訴えて行きました。

昭和29年、全国の教育研究者の大会に出席。ここで持論を述べました。

  

肢体不自由児も教育を受けることで有能な社会人となる。

さらに各県に少なくとも1校の肢体不自由児の学校、

全国300の特別学級を早急に設置してほしいと訴えました。、

盲学校、聾学校はあったようですが、知的障害・肢体不自由児・病弱者のための養護学校は

決して多くはなかったようです。

    

  

松本校長はテレビ番組に出演してこう言っています。

 

現在、小学校、中学校におられる手足の不自由な方が12万名おるわけですが、

そのうち1万1千名が就学猶予とか免除という名前で

学校教育からはずされているわけなんです。

ですからこれは、もし普通のお子さんだったら

学校へ上げなかったら親御さんが罰せられるわけなのに、

手足が不自由なばっかりに教育からはずされているというのは、

矛盾していると思うんですね。

その矛盾といえばですね、いままで人間がお互いに殺し合う戦争という名前でですね、

大きな努力を各国もやってきたと思うんです。

ところがお互いに理解し合うために、

これに比べたら努力はほとんどなされていないんじゃないかという気もしますね。

仮にジェット(戦闘)機1つあったら、それだけの費用で養護学校が10も15もできるというのが

われわれ常に言いたいことなんでございますがね。

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ナレーターの話:

 

松本校長の訴えは続き、

昭和31年に公立の養護学校の設置を促進する法律が制定されます。

肢体不自由児の学校は全国各地に作られていきました。  

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すべての肢体不自由児に学校教育を受ける権利が保障されたのは、

昭和54年。ここに、肢体不自由児の義務教育が実現したのです。

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昭和54年と言えば、つい最近ですよ。

上の写真が白黒なので、うんと昔のように思えてしまいます。

カラー写真でもおかしくない最近のことです。

   

地元にある豊川支援学校。

この学校が開校したのも、昭和54年の4月でした。

予想より・・・こんなに最近のことだったのですね。

  

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ナレーターの話:

すでに退職していた松本校長は、この時病に倒れていました。

その直前まで、肢体不自由の子どもたちのために国会に足を運んでいたと言います。

  

   

今はあるのが当たり前の特別支援学校、特別支援学級。

ちょっと前までそうではなかった・・・・そういえば、私が中学生の時に、

特殊学級がありました。

戦後、学校教育法で、法的には位置づけられてはいました。

※日本で最初の特殊学級は、Wikipediaによると、

1890年 長野・松本尋常小学校に『落第生学級』の設置だったようです。

すごい名前です。また機会があったらくわしく調べてみたい。※Wikipedia 特別支援学級

  

つづく

「肢体不自由児たちの学童疎開」引用6/最後の学童疎開

  

今日は9月7日。

  

8月27日の投稿のつづきです。

8月9日放映の「ETV特集 ”戦闘配置されず”~肢体不自由児たちの学童疎開~」から。

   

疎開先は決まりました。

上山田村の村長が経営する旅館です。

次は移動手段です。

  

ナレーターの話:

 

普通学校の疎開では、東京都が疎開先と列車の手配をしました。

しかし、光明学校は自力で確保しなければなりません。

松本校長が鉄道局に通い続けること3日。

子供たちの学校生活に欠かせない治療器具の輸送です。

何とか客車1両を貸し切ってもらえることになりました。

さらにもう1つ、課題がありました。

大きな器具の数々。その輸送問題が伴うのは、普通学校の疎開とは大きな違いでした。

松本校長は学校近くの陸軍の部隊長に直訴しました。

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松本保平校長:

 

本土決戦になった場合、肢体不自由児は足手まといになります。

この児童がいなければ、それだけ戦力は増強します。

是非、引っ越しに手を貸して下さい。

  

ここで違和感がありました。

松本校長が肢体不自由児をのことを「足手まとい」と言ったことに対してです。

すかさずナレーターが言います。

  

ナレーターの話:

 

校長は軍の協力を引き出すため、

あえて肢体不自由児は足手まといになるという表現を使ったのです。

   

なるほどと思いました。

子どもたちの命がかかっていたので、必死でした。

軍の協力は得られ、器具は運搬してくれることになりました。

  

こうして子どもたちの疎開地への移動が実現しました。

光明学校が疎開地に向けて出発したのは、昭和20年5月15日午前10時。

終戦3か月前!

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この時までに、60万人を超える子どもたちが疎開先に行っていました。

光明学校の疎開は、最も遅い学童疎開となりました。

  

疎開地に行くまでも大変でした。

ナレーターの話:

 

車の中では途中、軽井沢から乗り込んできた大勢の大人たちが

光明の貸切車両に押し寄せて、声を荒げて言いました。

  

乗客

乗せろ。貸切はないはずだ。俺たちは昨日から並んでいるんだぞ。

まだ席が空いている。それに、おかしなのばかりじゃないか。

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ナレーションの話

乗り込んできた大人たちに、松本校長は立ちはだかりました。

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校長の手記

 

なんとしても乗せるわけにはいかない。大勢乗れば、子供がつぶされる。必死で抑えた。

  

  

誰もが必死。

乗り込んできた乗客も、松本校長もです。

ここまで必死に子どものために動く。

残りの教員生活で、そんな場面はあるのだろうか?

今やれば?と言われそうですが、必死レベルは難しい。

  

  

ナレーターの話:


上野を出発して7時間。一行は上山田村近くの戸倉駅に到着しました。

そして、受け入れ先の宿に全員無事、たどり着くことができました。

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そのわずか10日後のことでした。東京の世田谷が空襲に見舞われます。

光明学校の校舎は、焼け落ちてしまいました。

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10日遅れれば、命はなかったかもしれない。

母校の校舎を失った悲しみと生きているという安堵の気持ちがみんなに交錯しました。

   

  

良かった!

3か月前・・・当然、当時の人たちは3か月前のイメージはありません。

疎開への決断と準備が生きたのです。

グッドタイミングでした。(つづく)

 

  

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