「肢体不自由児たちの学童疎開」引用5/疎開先が上山田村に決まる
今日は8月27日。
前投稿のつづき。
8月9日放映の「ETV特集 ”戦闘配置されず”~肢体不自由児たちの学童疎開~」から。
戦争になり、「現地疎開」をしていた光明学校。
1945年3月10日の東京大空襲を、世田谷の学校から見ていた松本保平校長は、
危険を感じて決意します。
「遺稿集」より:
ここも安全な地ではない。これ以上とどまるのは危険である。
「太古では、生存のための闘争が激しかったので
足手まといの肢体不自由児や老人は常に取り残されて、
死ぬがままに任された」と記録にあるが、
いまは太古ではないはずだ。
疎開先は自分で見つけるしかないだろう。
しかし、光明の児童を引き受けてくれる県があるだろうか。
松本校長は疎開先を探しに出かけます。
向かった先は長野県。
紹介されて上山田村に行き、村長に会おうとしますが、
会うことすらできませんでした。
しかし、あきらめては子どもたちはもう生きていられないと思い、
さらに会うことをお願いしました。
さらに、上山田村の旅館・ホテルに直接交渉もしました。
松本校長の熱意に、温泉旅館の人たちが村長を説得。
村長と会うことになりました。
松本校長と話した村長は、松本校長の一途さにほだされて、
疎開を受け入れることを了承しました。
何と、村長が経営する宿がその場所になりました。
いいぞ、村長!
疎開先は決まりました。
上山田村はどこにあるのでしょう。
調べてみました。
う~ん、もう昼です。 午後からは出張で飲み会。
今日はここまでかな。最後までまとめたかったけど、中断します。
コメント