「北条義時」より・・・南都北嶺・官打ち
今日は1月2日。
半世紀前に出版された「北条義時」(安田元久著/吉川弘文館)より。
平氏に対抗する勢力として、14pに「南都北嶺(なんとほくれい)」という言葉がありました。
「南都」は「奈良の興福寺」を指すことは、この投稿をまとめていて知りました。
それでは「北嶺」は?
調べてみました。
「南都北嶺」について、辞典にこう書いてありました。
南都とは、北に位置する平安京に対する平城京すなわち奈良の都をいうが、
とくに、中世になって都市的発展をみせたかつての外京地域に位置する
東大寺・興福寺などの寺院やその周辺地域を指していう。
ひいては、これらの寺院のなかでもとりわけ強大な力を誇った興福寺を、
また同寺およびそれを中核とする寺社勢力を意味した。
一方、北嶺は直接には比叡山延暦寺のことであるが、
南都北嶺と総称する場合には、園城寺(おんじょうじ)(三井寺)などを含むこともある。
なるほど~。本を読んだことで、また一つ勉強ができました。
また官位の昇進を唯一の望みとした実朝に対して、
院当局はその希望にまかせて、しきりに将軍実朝の官位をすすめ、
健保六年正月に権大納言、三月兼左大将、十月内大臣とし、
その十二月には二十七歳の若さでついに右大臣に任ずるに至ったが、
この官位の陞叙(しょうじょ)は、朝廷が実朝をいわゆる「官打ち」にするためであったと言われる。
「官打ち」とは、分不相応な官位の昇進を行い、その人が官位の重さに負けて、
生命をちぢめることを期待するという方策であり、当時の社会では、
そのようなことが信じられていたのである。
この「官打ち」を意図したという説は、『愚管抄』の著者慈円が述べたところであるが、
当時の京都側が、皇族将軍の実現のために、
実朝の死の早からんことを望むという客観情勢は、たしかにあったと思う。(167-168p)
「官打ち」という言葉も知りました。
実朝に朝廷が積極的に官位を与えていたことは知っていました。
でもこんな魂胆があった(可能性があった)とは。
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