「天地明察」より・・・研鑽のためなら
今日は1月6日。
前投稿に続いて、11月に読破した「天地明察」(冲方丁著/角川書店)より。
渋川春海が観測事業で一緒に旅をしている建部昌明と伊藤重孝に、
関孝和のことを紹介するところがあります。
「一つ気になっていたのですが、それはなんの本なのでしょう」
伊藤が、春海の傍らに置かれた本を指さして言った。
先ほど月蝕観測の際に、春海が慌てて手渡した、関孝和の稿本である。
「これは・・・」
口ごもりつつ、とある算術の達人による稿本である、と告げるや、
「名は?」
「いずこの方で?」
たちまち建部と伊藤が一緒になって食いついた。
勢い、春海は金王八幡の算額絵馬のことや磯村塾や
”一瞥即解の士”たる関孝和について話さざるを得なくなり、
「そのような人物が江戸にいるとは」
建部など力いっぱい拳を握りしめ、
「ぜひ弟子入りしたい」
はっきりそう言った。なんと伊藤までが首肯(しゅこう)している。
この二人の老人にとって研鑽のためなら三十も年下の若者に
頭(こうべ)を垂れることなど苦でも何でもないらしい。それどころか、
「だいたいにして若いしというのは実によろしい」
「ええ、ええ。教えの途中で、ぽっくり逝かれてしまうことがありませんから」
などと喜び合うのだった。(207p)
この本を読んで、一番印象に残ったのは、実はこのシーン。
自分がベテランと言われる年になっているにもかかわらず、
まだ自分の未熟がどうしようもない。
でも学ぶ場に行くと年下ばかりになってきてしまいました。
講師の先生も年下。
この伊藤重孝や建部昌明のような態度はいいなと思いました。
若い講師に出会っても、今の自分を否定しなければいいのです。
今の自分は、今までベストを尽くして出来上がってきたもの。
でも人間は一生完全にはなれない。
至らないところを補ってくれる講師に出会ったら教えてもらえばいいのです。
だから講師は老若男女関係なし。
学ぶのをやめる必要もなし。周りが若者ばかりでも。
1月12日。兵庫に行って勉強してきます。
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