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2012年4月21日 (土)

「藤原氏の正体」1 大化の改新異説

 

今日は4月21日。再スタートから8日目。

     

NHKが2月に放映した

さかのぼり日本史 平安時代 藤原氏はなぜ権力を持ち続けることができたのか」(4回シリーズ)を見たため、

最近の私のブームは「藤原氏」です。

本「藤原氏の正体」(関裕二著/新潮文庫)を読みました。

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いろいろ新しい説があったり、知りたいと思っていたことが書いてあったりと、

楽しんで読みました。

たとえば・・・・

   

大化の改新

正義:中大兄皇子、中臣鎌足

悪:蘇我蝦夷、蘇我入鹿

といったイメージがありますが、著者はこれを否定していました。   

   

なぜ蘇我氏を討ったのかというと、

蘇我氏が百済救援に消極的だったからです

中臣鎌足は百済救援をしたかったのです。

実は、鎌足は人質で日本に来ていた百済王(王子)の豊璋(ほうしょう)だったという説です。(これが大胆な説)

一度は新羅・唐の連合軍に滅ぼされた百済は、

人質になっていた豊璋をたてて国を再建しようとします。

日本の力をかりて、百済と連合軍が戦ったのが、

白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)です。

百済援助に消極的だった蘇我氏を討って、

実権が中大兄皇子にあったから、日本は出兵したというわけです。

   

藤原氏の祖である中臣鎌足は、百済出身の日本人ではなかったという説は、

それ以後の藤原氏の動きにも関係あります。

日本は孤島だったこともあって外敵の侵略がなく、お人よしの性格が形成され、

古代豪族たちは合議によって政治を進めてきました。

しかし、藤原氏は違いました。

他の有力な勢力をつぶして、藤原氏だけが繁栄することを目指しました。

これは、藤原氏が大陸から来た勢力であって、生き残るために他を陥れる性格だったからです。

   

さあ、皆さんはどう思いますか?

面白いでしょ。(つづく)

 

 

 

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