「沈黙する教室」前半/ロシア語は占領者の言葉
今日は令和5年1月10日。
この本を半分まで読みました。
図書館の返却期限が来たので、一度返します。
「沈黙する教室」(ディートリッヒ・ガルスカ著
大川珠季訳 アルファーベータブックス)
映画「僕たちは希望という名の列車に乗った」の原作本です。
※ここでも道草 映画「僕たちは希望という名の列車に乗った」を観ました
ハンガリー動乱による被害者のことを思って、
東ドイツの高校生が、授業の始めに黙祷を行いました。
それが当局で問題になり、高校生たちは退学処分になります。
そして高校生たちは、西ベルリンに脱出します。
その高校生の一人が書いた本です。
半分読んだところで、引用しておきたい文章。
七人の教師と二人の補助教員、たったこれだけで学校の授業を行っ
ていたのだが、彼らは互いに似ても似つかなかった。一方は過去か
らやって来た、ワイマール共和国とナチズムの時代の人たちだった。
過去を語ることが禁じられた時代だったため、彼らは過去のことを
語らなかった。そして未来を懐疑的に捉えていたため、未来のこと
も語ろうとはしなかった。他方の教師は現在に立脚し、未来のこと
を語った。なぜなら、彼らは過ぎし日を忌々しい過去と定義し、今
日を未来への希望で理想化していたからだ。
(67p)
事件が起こった1956年は、ナチズムを招いたワイマール共和国
と、ナチズムを体験した人と、大人としてそれらを体験していない
人たちが教師をやっていたんだなと思いました。
教師だって人間。時代の影響は受けます。
つい先日、私は、戦争体験者に教えてもらった年代だと
認識したばかりです。
担任教師のグスタフ・カスナー。
生徒たちは彼をヒャーメンと呼んでいました。
私たちが学校を去ったときもまた、私たちのことを気にかけて「どう
か元気でやるんだぞ」と言ってくれた。私たちが西側に保護されたこ
とを人づてに知り、安堵したそうだ。彼が勤める学校にとっては「退
場」を意味した私たちののちの行動も、彼は肯定してくれた。
「私が若かったら同じことをしただろう。一致団結し、熱狂して何か
するのは、若者の特権だ」
(74p)
担任は責任を取らされたと思いますが、彼らの行動を肯定していたのですね。
ロシア語教師リヒャルト・ヴェール。1894年生まれ。学校で四番
目に年輩の教師。SED党員だったため、他の教師とはどこか違うと
ころがあった。しかし、彼がプロパガンダすることも、教えを広める
こともなかった。のほほんとして落ち着き払い、単調な授業を行った。
この適当さは歓迎したが、問題もあった。私たちはロシア語を学ぶ気
が起きなかったのだ。もちろん全く勉強しなかったわけではなく、課
題を拒否しようとしたのではないし、拒否することは当然できなかっ
た。ただ、いつもギリギリ、最低限の勉強しかしなかった。ロシア語
は占領者の言葉だ。新しい言語を学ぼうという気持ちにさせるような
言語ではない。そしてそれは、偉大な国家ソ連の絶え間ない自画自賛
への不快感と結びつくものだった。
(77~78p)
東ドイツの高校生は、ロシアをどう思っていたのか分かる文章でした。
ヴェルナー・モーゲル、歴史教師。1926年生まれ。(中略)
歴史の授業では、ほんの何ページか先の準備しかしていなかったため、
私たちの間で評判は上がることはなかった。
(80~81p)
高校生に不人気だった教師です。
当時の東ドイツの体制側の人間だったからだったのも不人気だった
理由ですが、上記の理由もあったようです。
私はドキリとしました。
私も授業の直前に教材研究をしているからです。
明日の授業で教えることは、今日勉強します。
校長先生のゲオルグ・シュヴェアツに対する文章です。
彼を良い教師だと思っていた。いつでもしっかり準備をしていて、理
解できるように説明してくれた。彼自身が勉強を続けることに強い興
味を持っていたし・・・(後略)
(88~89p)
生徒はそんなところをちゃんと見ているのです。
そういう教師になるように心がけようとおもった文章です。
原作と映画で大きく違ったのは、黙祷の時間。
映画では2分間でしたが、原作では5分間でした。
5分間の黙祷は長い。教師も何かおかしいと思ったでしょう。
以上です。
225p以降はまた借りて読もうと思います。
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