「ももちゃんのピアノ」④ 東風平先生はももちゃんの記憶の中に生きる
今日は令和4年6月24日。
暑いですね。
暑いけど、これが日本の夏。
頑張りましょう。
昨日の記事の続きで、
「ももちゃんのピアノ 沖縄戦 ひめゆり学徒の物語」
(柴田昌平文/阿部結絵/ポプラ社)より。
東風平(こちんだ)先生はこのとき22歳で、初子姉さんよりひと
つ年上でした。先生は、子どものころから音感がよく、雨のしずく
の音程のちがいをきき分けられるほどだったといいます。貧しかっ
たけれど、ふるさとの島の人たちに援助され、東京の音楽大学を卒
業しました。「沖縄にもどるのは危険だよ、戦争に巻き込まれるか
もしれないよ」とまわりの人たちにいわれましたが、「沖縄の子ど
もたちが待っている。僕は行きたいんだ」と、反対をおしきって、
ひめゆり学園に赴任してきたのです。
(76~77p)
ももちゃんにピアノを弾いて聞かせたり、
男女が自由に行き来できなかった時代に、
女子生徒を男子校の音楽界に連れて行ったりした東風平先生。
沖縄に戻ることは反対されていたのだと知りました。
東風平先生は、沖縄戦で命を落とします。
でもももちゃんが生き残って、こうやって話したことで、
東風平先生のことが後世に残ります。
ももちゃんが捕虜になってでも生き残った価値があるというものです。
戦争の最中、ひめゆり学園の生徒たちの卒業式が行われました。
ももちゃんたちが不満だったのは、せっかくの卒業式のために東風
平先生が新しくつくってくれた歌があったのに、砲弾の飛びかう卒
業式では歌うことができなかったことでした。それは、『相思樹(
そうしじゅ)の歌」といい、戦争の時代の歌とは思えないとても美
しいハーモニーの曲でした。
♪ 卒業してあふれでる喜び
ほほえみながら 巣だっていくんだ
大好きな友たちよ 健康で幸福でありますように
かわりに歌わされたのが『海ゆかば』という軍歌でした。
♪ 海に行ったならば 水につかった死体になろう
山に行ったならば 草のはえた死体となろう
天皇陛下のおそばで死ぬんだ 後悔はしない
国のため、天皇のために命をおしまず戦うことをほめたたえる歌だ
ったのです。暗闇の中、ろうそくの明かりだけに照らされて、ぼん
やりうかぶ女生徒たちの顔、顔、顔。全員ひそめた声をあわせて、
「死のう、死のう」と歌うのです。それはまるで死への行進曲のよ
うでした。
(100~101p)
「海ゆかば」は軍歌です。
哀愁をおびたメロディーがよくて、気に入った曲でした。
でも、こうやって歌詞をわかりやすく書かれると、
ドキッとさせられます。
4年前もこの曲の歌詞について書いていました。
※ここでも道草 「海ゆかば」の作曲者が、校歌の作曲をしていた(2018年11月7日投稿)
その時、「死体」のことを「屍(かばね)」としていました。
「死体」と表現されると、よりこの歌詞はおかしいのではと
思えました。
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