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2022年1月22日 (土)

「徳川15人の将軍たち」② 悪者役の鳥居耀蔵

    

今日は令和4年1月22日。

    

前記事に引き続き

「徳川15人の将軍たち」

(小沢章友著/森川泉絵/集英社みらい文庫)

より引用していきます。

   

   

家斉は、まつりごとにはほとんど関心をもたず、ひたすら遊び暮ら

した。

家斉の頃の大奥は、側室が四十人を数え、産ませた子は五十五人に

ものぼった。

この子たちを、家斉は、大名のもとに、養子や嫁として送り込んだ。

将軍がこんなふうであったから、庶民の暮らしも、享楽的になった。

「江戸っ子は宵越しの金はもたぬ」

という、刹那的(その瞬間だけを考えて生きること)なことばが流

布するのは、この時代からだった。

それでも、この「文化文政時代」には、元禄時代に肩をならべるほ

どの芸術文化が、江戸と上方に花ひらいた。

浮世絵師では、風景画の葛飾北斎、安藤広重、そして役者絵の東洲

斎写楽、美人画の喜多川歌麿らがけんらんとした作風をつくりだし

た。

「南総里見八犬伝」を書いた読本作家の滝沢馬琴、「東海道四谷怪

談」などの歌舞伎脚本を書いた鶴屋南北、俳人の与謝蕪村、小林一

茶、そして「浮世床」を書いた戯作者(げさくしゃ)の式亭三馬、

「東海道中膝栗毛」を書いた戯作者の十返舎一九など、庶民を楽し

ませる芸術文化が生まれた。

(158p)

   

化政文化は生徒に時間をかけて教えたところです。

どれほど伝わっているかな。

  

  

六十五歳になった家斉は、天保八年(1837年)に、五十年つづ

けた将軍を隠居し、大御所となって、次男の家慶を将軍につけた。

しかし、大御所として、実権をにぎりつづけた。

その年に、モリソン号事件が起きた。

これは、日本人漂流民を送ってきたアメリカ船のモリソン号を、「

異国船打払い令」により、撃退したものだった。

「おろかな」

「なんということをするのだ。いまの世界情勢をしらなすぎる」

幕府の対応を、蘭学者の渡部崋山、高野長英ら、蛮社と呼ばれる尚

歯会(しょうしかい)の面々はきびしく批判した。

「幕府批判はゆるさぬ。あやつらをとりしまれ」

幕府は、崋山らを、天保十年(1839年)に粛清し、獄に入れた。

これが、いわゆる「蛮社の獄」と呼ばれるものだった。

(161~162p) 

   

地元近くの田原にゆかりのある渡辺崋山。

蛮社の獄は、家斉が大御所、家慶が将軍の時のことだったのですね。

  

  

家慶の時代。

  

(水野)忠邦は、倹約を奨励し、綱紀を粛正(国家の規律などをた

だすこと)し、みだれきった風俗をただそうと、南町奉行所に鳥居

耀蔵をばってきした。

耀蔵は、絹織物の製造や使用を禁止し、寄席の制限、歌舞伎の弾圧、

好色本の出版禁止など、つぎつぎと、きびしくとりしまっていった。

江戸市中にスパイをはなち、違反者をかたっぱしから逮捕していっ

たので、伝馬町の牢獄はすぐにいっぱいになった。

「なんて野郎だ」

「妖怪だ」

その非情さで、妖怪とあだなされた耀蔵は、江戸庶民からきらわれた。

(171~172p)

   

鳥居耀蔵の名前は、悪者のイメージで残っていました。

こういう理由なのですね。

鳥居耀蔵は仕事熱心だったのでしょう。

  

  

家慶の子は、二十七人と家斉についで多いが、ぶじに成長できたのは、

家定ひとりだった。

(177p)

  

そうだったんだ。

   

コメント

浜松には「破地士等窠」という古文書があります。水野忠邦藩主のもとでの政治などについて記したものですが、はじしらずとの題名で想像できますね。移封が決まったときに皆が喜んだといわれています。老中としてもきっと‥。

そうです、そうです。
水野忠邦は浜松にゆかりのある人ですよね。
長崎から浜松に願って移った後に、、
江戸幕府に入ったと聞きます。
あまりいい藩主ではなかったのですね。
情報をありがとうございます。

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