「火定」読破/今を予言するような本
今日は令和3年5月15日。
前記事に書いたこの本を読みました。
「火定」(澤田瞳子著/PHP)
奈良時代の天然痘流行は、今の新型コロナウイルス感染流行よりも
とてもひどい状況であって、人間のいろいろな闇が描かれ、
その中でも光も光が描かれた作品だと思いました。
登場人物が様々結びつき、大きな物語になっていました。
藤原不比等の息子たち、藤原4兄弟をも死に至らしめた
天然痘の流行に関心がある人なら、ぜひ読むといい本でした。
引用します。
人はみな、いつかは死ぬ。この世でどれだけの名声を得、財を成そ
うとも、死ねばその功績は無となり、いずれは存在すら忘れ去られ
る。
(79p)
このように前半部分で書いた著者は、後半で次のように書いています。
人間は、死ねばそれまでだ、と思っていた。だからこそ、せめて生
きているうちに、自分たちは何か為すべきことを見つけねばならぬ
のだと考えていた。
しかしながら病に侵され、無惨な死を遂げた人々の記録は、後の世
に語り継がれ、やがてまた別の人々の命を救う。
ならば死とは、ただの終わりではない。むしろ死があればこそなお、
この世の人々の次なる生を得るのではないか。
(中略)
灼熱の暑さとともに京を襲ったおびただしい死。如何におぞましく
無残な現実であろうとも、人々が活きたその痕跡は確実に残り、そ
の死は新たなる命を産み出す。
だとしたら彼らの死は決して、無駄ではない。この世に業火に我が
身を捧げる、尊い火定(かじょう)だったのだ。
(403~404p)
澤田さんがこの本を書いた理由でもあると思います。
天然痘で亡くなった古代の人たちの死も、
この本が世に出ることで生きるのです。
天然痘の流行で、人間のもっている闇が表に出てくること。
しかし、その闇の中であっても光を放つ人たちがいること。
そんなことが伝わってきます。
このことを一番伝えたいために、
「火定」が本のタイトルになったと想像します。
災厄は本来、日々の飯にも事欠く庶人のみに付きまとうものだった
のに、今回の疫病の爪牙(そうが)の前には、身分の高下も貧富の
差も意味がない。美々(びび)しい官服に身を包んで出仕する官人
も、牛馬の如く市で売り買いされる奴婢も、病の前に何の分け隔て
もなく倒れ、高熱に喘ぎ、豆の如き瘡に全身を覆われて息絶える。
その無差別な死は、この国の身分秩序や規範がなんの役にも立たぬ
ことを、衆人に如実に思い知らせ、疫病の恐怖をその心に強く叩き
込むのであった。
(145~146p)
藤原4兄弟が命を落とすほどなので、
このような状況だったのでしょう。
「わが身のためだけに用いれば、人の命ほど儚(はかな)く、むな
しいものはない。されどそれを他人のために用いれば、己の生にも
万金にも値する意味が生じよう。さすれば命を終えたとて、誰かが
わしの生きた意味を継いでくれると言えるではないか」
(183p)
命がけで天然痘と対峙している人たちの中で起こった思いです。
他人のために命がけで頑張ることは、
万金に値する尊い生き方なのでしょう。
いつかできるかな。
畿内では十年ほど前から、行基とかいう僧侶に率いられた者たちが、
池の造成や架橋などの土木作業に勤しんでいるという。
(215p)
そうか行基が活躍している時代でもあるのだと思いました。
名代は腹の底から深く息をついた。これまでにいったいどれだけの
人々が疱瘡によって命を奪われ、あるいは生きながらこの世の地獄
を這いずることとなったか。
仲間思いの多伎児(たきこ)、やんちゃで手のつけられなかった白
丑・黒丑兄弟、常に朗らかだった密翳(みつえい)・・・・昨日と
同じ今日、今日と同じ明日が続くと疑わず、彼らとただ笑い合って
いた三カ月前が、何十年も遠い過去の如く思われる。あの平穏な日
々は果たして、もう一度、この国に戻ってくるのだろうか。
(332p)
この話が最初に書かれたのは2015年でした。
今を予言するような内容です。
いつマスクをしなくてもいい生活に戻れるのでしょうか。
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