「孤塁」③特攻隊のようなことをしなくてはならないのか
今日は令和2年12月6日。
前記事に引き続き、
「孤塁」(吉田千亜著/岩波書店)より引用します。
2011年3月12日のことです。
「22時23分、富岡消防署を閉鎖します」
上司が無線で告げるのを横で聞いていた渡部は、「今後、こんな経
験をすることはないだろう」と思った。消防署は365日開いてい
て、119番通報も24時間受け付けているものだ。それを、閉じ
る。「助けてください」とひとが駆け込む場所が、閉まる。
(62p)
福島第一原発からの放射性物質放出のため、
消防署のある場所は避難地区になったのです。
3月13日のことです。
当時、避難所では、職員たちのタイベック(防護服)姿が不評だっ
た。原発事故によって、突然避難を余儀なくされた人々には苛立ち
も広がっていた。この先どうなるかという不安だけではなく、当然、
放射能汚染への不安もあった。「自分らばっかり防護して」「不安
を煽(あお)るからやめろ」「そんな格好でくるんじゃねぇ!」な
どと言われ、職員の中には避難所に入る際にはタイベックを脱いで
活動する者もいた。
(80p)
最前線で活動していた消防士たちには、タイベックが必要でした。
でもこのように見られていたのですね。
3月15日のことです。
少々長い引用ですが、大事な場面であるので、引用します。
極限状態での「さよなら会議」
川内出張所に職員が集まると、消防長が切り出した。
「イチエフ(福島第一原発)の原子炉の冷却要請が東電から来てい
る。地域を守りたいし、俺達しかいない。放射線に対する知識もあ
り、資器材もある。どう思うか」
消防の指揮命令系統は、消防長の指示、現場であれば上司の指示に
従うのが通例だった。部下に意見を聞くのは稀なことだ。
岡本博之は、「今までの消防生活の中でこの時以上に緊張した場面
はない」と思い返している。消防長の問いかけのあと、室内には怒
号が飛び交った。
「殺す気なのか!」
「反対だ!」
「何を考えているんだ!」
1号機と3号機が爆発し、給水作業中の自衛隊も東電社員も怪我を
した。オフサイトセンターも撤退するほど、原発の状況は危険だ。
しかも正確な情報が伝わってこない。
冷却水として海水を取るというが、ポンプで汲み上げられるものな
のか。現場の放射線量は。海水を入れれば原子炉の状況は改善され
るのか。自分たちが触ったことのないポンプ車を動かせるのか。多
くの職員が、チェルノブイリの消防士たちの運命やJCOの臨界事
故を思い浮かべた。
「行けと言われたら辞表を出す」と言った職員や、「業務命令なら
行くしかない。その代わり家族を一生面倒みてください」と言った
職員もいる。双葉消防に入って1年目の若い職員は吐き気をもよお
し、その場で倒れた。
渡邉敏行は、「無事な保証は何もない。情報が足りなさすぎる」と
思っていた。岡本は「これでは、特攻隊と同じではないか」と思い、
志賀隆充は、「トカゲの尻尾切りではないか」と思った。野村浩之
は「日本はもう終わりなのかな」と考え、坂本広喜は「情報がない
と行けないです」と言った。全住民が避難した今、一企業のために、
消防がここまでする必要があるのか。国は、県は、出てこないのか。
消防は、特攻隊のようなことをしなくてはならないのか。全国から
緊急消防援助隊が来ないと知ってから、孤独感でいっぱいななか、
活動を続けている。その最中のこの話だ。
「行きたくありません。家族が大事です」と言った職員もいる。そ
れを聞いていた畠山清一はほっとし、心の中で感謝していた。まだ
22歳の自分のような下っ端には、一番、言いたくても言えない一
言だった。3号機爆発を目の当たりにしていた遠藤朗生は正直怖い
と思っていたが、これで東日本がダメになるというなら、「捨て石」
になっても行かざるを得ないのだろう、と考えていた。木村匡志は、
作業員を助けるために構内に行くならいいが、捨て駒のように「冷
却しろ」「突入しろ」というのは違うだろう、と思った。
「状況が把握できていなくて、リスクが高すぎる。いつもの消防長
の判断と違う」と違和感をおぼえた鈴木達也は、つまり、死ぬこと
が前提なのだと感じていた。自分が選ばれるかどうかはわからない
が、家族にひと目会っておきたかった、と思った。鈴木は、家族と
は連絡がとれていなかった。「情報を引っ張ってきてくれるなら、
俺が明日行く」と言った職員もいたが、ほとんどの職員が反対して
いた。
工藤昌幸は、「この状態で我々が葛藤していることを、国は知って
いるのだうか・・・・」と考えていた。人のいなくなった町で、今
なお活動を続け、さらに原発の冷却要請に葛藤している我々の存在
を、誰が知っているのか。多くの職員が泣いていた。
最終的には、東電から現場にいる社員を川内出張所に呼び、詳細な
情報を教えてもらってから再度検討する、という結論になった。
(中略)
宮林晋は、被ばくも当然怖かったが、原発に至近距離で爆発される
ことのほうが怖かった。携帯メールに妻にあてて遺書を打ち込み、
いざとなったら送ろうと考えていた。堀川達也は、高校で唯一の友
人に遺書を送った。妻には心配をかけたくなかったため、「頑張っ
てな」とだけ送った。草野重信も、いつも持ち歩いている小さなメ
モに、遺書を書いた。
家族あっての仕事、と思い続けてきた松本孝一も、妻と子どもあて
に遺書を書いた。電話が通じたときに、「遠くへ避難しろ」と家族
には伝えてあったが、妻は「一緒に避難して」と松本を案じて泣い
た。心細いだろう、一緒にいてあげたい、と思ったが、仕事を離れ
ることはできなかった。娘は県外の大学に進学が決まり、息子は、
野球がしたくて双葉高校に入学し、頑張っていたところだった。地
震があった日も、一人暮らしを始める娘の家具を買いに出かけてい
た。二人とも「これからだね」と思っていた矢先の被災、そして避
難だった。松本は、楽しかった日々のこと、感謝の思いを綴り、も
し自分に何かあったら子どもたちのことを頼む、と妻にあてた。
(119~122p)
このような葛藤が、3月15日にあったことに驚きです。
以前、「死の淵を見た男 吉田昌郎と
福島第一原発の500日」(門田隆将著/PHP研究所)
を読みました。
※ここでも道草 昨日、また本を読破しました(2019年10月23日投稿)
「死の淵を見た男」とは別角度から、
東日本大震災とそれに伴う原発事故を描いた本でした。
ここにも死を覚悟した人たちがいました。
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