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2020年9月 6日 (日)

「永田鉄山 昭和陸軍『運命の男』」③ 考え方の違いによる派閥の生成

  

今日は令和2年9月6日。

  

前記事に引き続き、

「永田鉄山 昭和陸軍『運命の男』」

(早坂隆著/文春新書)より引用します。

  

五・一五事件後の話です。

  

 暗殺された犬養毅に代わって首相に就いたのは、海軍大将で後備

役だった斎藤実(まこと)である。(中略)

 同時に非政党の斎藤内閣の発足は、大正七年(1918年)の原

敬内閣発足から続いた日本の政党政治が、一つの終焉を迎えたこと

を意味していた。戦前の政党政治は、僅か十四年間で幕が閉じたの

である。

 永田も、汚職を繰り返す腐敗した政党政治に幻滅し、その限界を

感じていた一人であった。

 日本に政党政治が復活するのは、敗戦を経た戦後のことである。

(139~140p)

  

最近授業で教えた原敬、政党政治。

五・一五事件の後に、終焉していたのですね。

勉強になった。

  

  

 永田が持論の一つとして「長州閥の一掃」を図ったことは、これ

までに幾度も触れた通りである。そして、その計画は充分な成功を

収め、出身地域による派閥の形成という事象は、陸軍内において大

きく減じた。

 しかし、この効果は皮肉な結果を招いた。即ち、出身地による派

閥争いが沈静化したのと反比例するようにして、思想や信条の相違

に端を発する立場の隔たりが、より鮮明な形で表れるようになった

のである。考え方の違いによる派閥の生成が、歴然と顕在化したの

であった。

(149~150p)

   

新しい派閥争いについては、この本でも、そして「NHKスペシャル

日本人はなぜ戦争に向かったのか」シリーズでも描かれていました。

ここでも道草 「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」シリーズを見た(2020年8月6日投稿)

  

  


 国際連盟から脱退(1933年3月27日)した日本であったが、

中国との二国間関係においては進展が見られた。

 5月31日、日中両軍の停戦協定が成立したのである。「塘沽(

タンク―)協定と呼ばれるこの合意により、柳条湖事件に端を発し

一連の両軍の軍事的衝突は暫く停止されるに至った。(中略)

 日本と中国の紛争状態は、この協定により一旦、収束することに

なる。即ち、両国は満州事変から一直線に日中戦争(支那事変)へ

と突き進んだのではない。満州事変からポツダム宣言までを1本の

線で結ぶ「十五年戦争」なる表現は、この点において正確とは言い

難いのである。

(154p)

  

そうなんだ。

知らないことはいくらでもあります。

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