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2020年5月 2日 (土)

「三陸海岸大津波」② 岩手県田老町の防災の歴史

  

今日は令和2年5月2日。

  

前記事に引き続いて

「三陸海岸大津波」(吉村昭著/文春文庫)より

引用していきます。

  

前記事で引用したように、この本が出版されたのは

昭和45年のことです。

その時点で取材できた明治29年、昭和8年の大津波と

昭和35年のチリ地震の被害について書かれていました。

  

 明治29年、昭和8年、昭和35年と津波の被害度をたどってみ

ると、そこにはあきらかな減少傾向がみられる。

 死者数を比較してみても、

  明治29年の大津波・・・・・26360名

  昭和8年の大津波・・・・・・・2995名

  昭和35年のチリ地震津波・・・・105名

 と、激減している。

 流失家屋にしても、

  明治29年の大津波・・・・・・9879戸

  昭和8年の大津波・・・・・・・4885戸

  昭和35年のチリ地震津波・・・1474戸

 と、死者の減少率ほどではないが被害は軽くなっている。その理

由は、波高その他複雑な要素がからみ合って、断定することはむろ

んできない。しかし、住民の津波に対する認識が深まり、昭和8年

の大津波以後の津波防止の施設がようやく海岸に備えはじめられて

きたことも、その一因であることはたしかだろう。

 高地への住居の移動は、容易ではないが意識的にすすめられてい

たことも事実である。そして、それと併行して住民の津波避難訓練、

防潮堤その他の建設が、津波被害を防止するのに大きな力を発揮し

ていたと考えていい。その模範的な例が、岩手県下閉伊郡田老町に

みられる。

(171~172p) 

ここから話は田老町にしぼられます。

  

 田老町は、明治29年に死者1859名、昭和8年に911名と、

2度の津波来襲時にそれぞれ最大の被害を受けた被災地であった。

「津波太郎(田老)」という名称が町に冠せられたほどで、壊滅的

打撃を受けた田老は、人の住むのに不適当な危険きわまりない場所

と言われたほどだった。

 しかし、住民は田老を去らなかった。小さな町ではあるが環境に

恵まれ豊かな生活が約束されている。風光も美しく、祖先の築いた

土地をたとえどのような理由があろうとも、はなれることなどでき

ようはずもなかったのだ。

 町の人々は、結局津波に対してその被害防止のために積極的な姿

勢をとった。

 まずかれらは、昭和8年の津波の翌年から海岸線に防潮堤の建設

をはじめ、それは戦争で中断されはしたが960メートルの堤防と

なって出現した。さらに戦後昭和29年に新堤防の起工に着手、昭

和33年3月に至って全長1350メートル、上幅3メートル、根

幅最大25メートル、高さ最大7.7メートル(海面からの高さ

10.65メートル)という類をみない大堤防を完成した。またそ

の後改良工事が加えられ、1345メートルの堤防が新規事業とし

て施行されている。

(172~173p)  

  

その田老町を、吉村さんは訪れます。

  

 私も田老町を訪れた時、海岸に高々とそびえる防潮堤に上ってみ

た。堤は厚く、弧をえがいて海岸を長々とふちどっている。町の家

並は防潮堤の内部に保護されて、海面から完全に遮断されている。

町民の努力の結果なのだろうが、それは壮大な景観であった。

 そのほか田老町では、避難道路も完成している。それまでの津波

襲来時に、道路がせまいため住民の避難が思うようにゆかなかった

苦い経験をもとに、広い避難道路を作ったのである。また避難所、

防潮林、警報器などの設備も完備している。

 ことに町をあげての津波避難訓練は、昭和8年3月3日の大津波

を記念して、毎年3月3日に行われている。それも、昭和8年の地

震発生時刻の午前2時31分39秒(盛岡観測所記録)に津波襲来

を予告するサイレンの吹鳴によって開始されるという徹底したもの

である。むろんそれは、寒さの厳しい深夜なのだが、住民は真剣な

表情で凍てついた夜道を一斉に避難するのだ。

(173~174p)

  

 田老町の防潮堤は、高さが海面より10.65メートルある。が、

明治29年、昭和8年の大津波は、10メートル以上の波高を記録

した場所が多い。(中略)

 そのような大津波が押し寄せれば、海水は10メートルほどの防

潮堤を越すことはまちがいない。

 しかし、その場合でも、頑丈な防潮堤は津波の力を損耗させるこ

とはたしかだ。それだけでも、被害はかなり軽減されるにちがいな

い。

(176~177p)

  

以上、田老町の防災の歴史に関する部分を引用しました。

つけたしで、Wikipedia 田老町より引用します。

  

昭和三陸津波70周年に当たる2003年(平成15年)3月、町は

「災禍を繰り返さない」と誓い、「津波防災の町」を宣言して記念

の石碑を設置した。同地区出身の田畑ヨシによる「津波てんでんこ」

の紙芝居活動をはじめとする児童への防災教育や、年一回の避難訓

練にも力を入れ「防災の町」として全国的にも有名であった。その後、

2005年に田老町は宮古市に編入され、消滅した。

  

 

「昭和三陸津波」というのが昭和8年の大津波のことでしょう。

防災にこうやって務めてきた田老町。

そこに2011年3月11日がやってきました。

  

つづく

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