「蚤と爆弾」③ 「富嶽」計画/曾根二郎の決断
今日は令和2年5月17日。
前記事に引き続き、
「蚤と爆弾」(吉村昭著/文春文庫)より。
以前、「中島知久平」「富嶽」について勉強しました。
※ここでも道草 「昭和の選択 中島飛行機の戦争」を見る(2020年4月14日投稿)
この本にも、富嶽計画のことが書かれていました。
ドウリットル爆撃機隊の日本本土初空襲がおこなわれた昭和17
年末、中島飛行機株式会社社長中島知久平は、ひそかに大航続力を
もつ爆撃機の試作を計画していた。
かれは、日本本土から超大型爆撃機を発進させ、太平洋を横断し
てアメリカ本土を爆撃すれば戦局を有利にみちびくだろうと判断し、
社の技術陣を督励して新型爆撃機の研究をすすめさせていた。
当時日本の航空機設計・製作技術は、世界の最高水準に達してい
た。中島の構想にもとづく超大型爆撃機は欧米各国の予想を完全に
上廻るもので、中島は異常なほどの情熱をそそいでその研究にとり
かかっていた。
アメリカに対する報復手段を考えていた大本営は、中島の計画し
ている太平洋爆撃機の構想に注目し、翌昭和18年秋、陸・海軍と
中島飛行機との三者協力のもとに新型爆撃機の出現に努力すること
を決定した。このアメリカ本土爆撃計画はZ計画と称され、新型爆
撃機を「富嶽」(G10N1)と命名した。
(121p)
計画の当初は、やはり実現可能と思われていたと思います。
その後、日本本土がB-29爆撃機による空襲に受けて、
「富嶽」計画は頓挫しました。
その過程も、この小説では書かれていました。
復習ができました。
この小説で、名前が書かれている日本人は「曾根二郎」だけです。
曾根は、日本軍の細菌兵器製造の中心人物です。
(実存した人物をモデルにした人物です)
敗色が濃くなった状況の下、
細菌を撒布する飛行機も入手困難となり、
曾根は次のように考えます。
曾根二郎は関東軍司令部首脳者と協議をつづけ、その結果、細
菌戦用兵器の使用は全く不可能であるとみとめざるを得なかった。
曾根の顔には悲痛な表情がみなぎっていた。多くの人材と尨大
(ぼうだい)な資材を投入して生み出した高度な細菌戦用兵器が、
最後の決戦の時に使用されることもなく終わることに、かれは憤
りにも似た悲しみを感じていた。
(164p)
終戦でこのお話は終わりだと思いましたが、
ここであれ?と思ったことがありました。
まだ小説は続くのです。残ったページ数が多すぎます。
残り80P余りが残っていました。
いったい何が描かれているんだと思って、ページを進めました。
欧米の強大な軍事力をもつ国々では、細菌戦用兵器の研究もおこ
なっているが、それは実戦には程遠い初歩的なもので、それらとく
らべて曾根二郎の指揮する関東軍防疫給水部の開発した細菌戦用兵
器は、きわめて高度な水準に達している。
ソ連軍としても当然曾根の開発した細菌戦用兵器に重大な関心を
もっているはずで、やがて進撃してきたソ連軍は、防疫給水部の本
部建物とその内部の研究実験記録を押収するにちがいなかった。
曾根は、長い歳月を費やしてようやく完成することができたもの
を、ソ連軍の手にわたすのは忍びがたかった。出来れば細菌戦用兵
器をはじめそれに必要な器具、資材を一つのこらず内地に移送した
かった。
しかし、それは事実上不可能なことであった。防疫給水部の飛行
機はわずか三機しかなく、兵器のすべてを輸送することなど及びも
つかない。かと言って一部がのこされれば、それを糸口にして細菌
戦用兵器の全貌があきらかになるおそれがある。
曾根は、苦慮した。そして、最終的には防疫給水部の建物の内部
につめこまれたものをこの地球上から抹殺する以外にないという結
論に達した。
関東軍総司令部も、曾根の決断に賛意を表した。
(165~166p)
残りの80pは、防疫給水部の建物内部にあったものを
抹殺した課程と、関わった人たちの戦後が描かれていました。
建物内部には、人体実験をする予定だった囚人たちも含まれました。
抹殺されてしまいます。
中心人物、曾根二郎はどうなったか。
次の記事で書きます。
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