「雪虫の飛ぶ日」⑤/除虫菊生産の歴史
今日は令和元年10月29日。
「雪虫の飛ぶ日 新十津川物語6」
(川村たかし著/偕成社)からの引用です。
もともと(新十津川)村は亜麻や豆類をうえて金にかえてきた。
トウモロコシや馬鈴薯もおおかった。
ところが大正にはいると、みるみる水田がひろがっていく。
第一次世界大戦がおさまって、豆成金、いも成金の代わりに、
米や麦をつくる家がふえた。
時代とともに作物もかわっていく。
昭和になると、きゅうに除虫菊がひろがった。
昭和5年に120町歩だったのに、5倍の600町歩をこえた。
多年生のこの植物は菊のようにのびて、
2年目から白い花をつける。
その後、数年間収穫があった。
手間がかからないのがなによりだった。
茎ごと刈りとって、千歯でしごいて、花をこきおとす。
花の子房に殺虫力があった。
日かげで干したものを6貫めんして麻ぶくろへつめた。
1貫めが5円もするときがあった。
安いときの米1俵の値段である。
(173~174p)
社会科教師は、こういう文章が気になります。
除虫菊を調べたくなりました。
それも北海道の除虫菊。
ありました。
いい勉強になりました。すごく。引用します。
除虫菊栽培の栄枯盛衰がわかる説明です。
除虫菊はキク科の多年草でムシヨケギクとも呼ばれ、
開花した花を摘み取り乾燥して、蚊取り線香、
蚤取粉(のみとりこ)、農薬などの原料とします。
石狩の除虫菊栽培は、明治25(1892)年
(明治29年ともいわれる)に、花畔(ばんなぐろ)村の
金子清一郎(かねこせいいちろう)が、
和歌山の上山英一郎(うえやまえいいちろう、金鳥の創業者)から
種子を取り寄せて、50株を道内他産地に先駆けて
作付けしたのが始まりです。
金子は製粉した蚤取粉も販売し、他の農家にも現金収入になる
除虫菊をすすめたので、花畔だけでなく親船町などにも栽培が広がり、
明治36(1903)年には全町の栽培面積が1町2反に達しました。
除虫菊は、もともと乾燥した気候と排水の良い砂質の
痩地(そうち)を好むため、石狩に適していたのです。
大正6(1917)年には、二代目金子清一郎を組合長として
「石狩町除虫菊栽培組合」が設立されました。
道内の他の地域でも除虫菊栽培熱は高まり、
特に第一次世界大戦(1914~1918年)後、
ヨーロッパで生産が激減して除虫菊の相場が上昇したのにともない、
北海道の除虫菊栽培は急激に増加し、
大正14(1925)年には国内作付面積の69%を占める、
全国一の産地となりました。その後、金子は昭和7(1932)年に、
和寒(わっさむ)村や倶知安(くっちゃん)町の農家とともに
北海道除虫菊製品工業組合を設立して、
濃厚エキスを「ピレトシッキス」、農業用乳剤および家庭用スプレーを
「ハルク」の名称で商品化し、道内外や海外へも販売しましたが、
昭和14(1939)年に北聯(ホクレン)に買収されています。
また、昭和17(1942)年には戦時体制の中、
石狩町除虫菊栽培組合は石狩町産業組合に統合されました。
第二次大戦後は、アメリカからDDTやBHCなどの
安価な化学農薬が輸入され、除虫菊の殺虫剤は市場での
競争力をなくしていきました。昭和25(1950)年頃には
花畔の一部で作付けされるだけとなり、
昭和35(1960)年頃を最後にまったく作られなくなりました。
金鳥の創業者上山英一郎が登場し、
かつては北海道が全国一だとわかるワクワクする説明です。
蚤取粉は興味津々です。
花畔を「ばんなぐろ」と読む難読地名にも出合えました。
新十津川村の登場人物も、
除虫菊の歴史の中で生きています。
除虫菊は、2つの世界大戦の間が、日本では栽培が盛んで、
北海道をはじめ、広島、岡山、香川、愛媛、和歌山などが
主な産地でした。参考:Wikipedia
本がきっかけで、またいい勉強ができました。
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