「にっぽん!歴史鑑定 幻の東京オリンピックと嘉納治五郎」その1/開催地決定までの道のり
今日は3月16日。
前投稿で嘉納治五郎に関する番組を見たと書きました。
その番組とは、2018年10月8日放映の
「にっぽん!歴史鑑定 幻の東京オリンピックと嘉納治五郎」です。
1940年開催予定の東京オリンピック誘致に
嘉納治五郎らがいかに苦労したかがわかりました。
1940年のオリンピック東京大会に関しては、
かつて、この記事を書きました。
※ここでも道草 山下勝選手のドラマを見ました(2014年8月2日投稿)
このドラマは「幻の祝祭 ~1940東京オリンピック物語~」でした。
このドラマでは、オリンピックに出場予定だった山下勝選手が、
オリンピックの中止によって出場できず、戦死した話でした。
東京誘致の苦労はあまり語られていませんでした。
しかし、「にっぽん!歴史鑑定」で、見えてきました。
番組全てをここに書き留めることは難しいので、
ここぞと思うところを書き留めていきます。
1940年のオリンピック候補地は東京以外にたくさんありました。
その中で最大のライバルはイタリアのローマでした。
嘉納治五郎は、当時のイタリアムッソリーニ首相に人を派遣し、
説得する策をとりました。
”あの”ムッソリーニ首相は、説得を受け入れ、ローマは辞退します。
でもこのムッソリーニ首相への直談判は、
オリンピックに政治を持ち込んだとして、
IOC(国際オリンピック協会)の会長ラツールは快く思いませんでした。
嘉納治五郎は、今度はラツール会長に会い、説得し納得してもらいます。
アジアで初めてのオリンピックを開きたいという熱意が伝わりました。
次にライバルとして登場した候補地はイギリスのロンドンでしたが、
ラツール会長の助言もあって、ロンドンも事態。
候補地は絞られて、東京とヘルシンキ(フィンランド)の2つになりました。
ここから聞き書きです。
ナレーター:どちらにするかは、ドイツのベルリンで開かれるIOC総会で、
決定することに。
そして、運命の日。嘉納は満を持してベルリン総会に臨みました。
ところが、ここにきても尚、日本が遠いという理由で、
反対を表明するIOC委員たちがいたのです。
そこで嘉納は、こう訴えました。
嘉納:近代オリンピックの意義は、
古代オリンピックがギリシャに限っていたのに対し、
世界のオリンピックにすることにあります。
欧米だけのオリンピックではない
東洋でも行うことで初めてオリンピックが
世界的な文化になるのです。
真田久(筑波大学体育系教授):ヨーロッパの人々は、
東京まで非常に遠いというけれども、
日本はストックホルム大会以来、毎回、ヨーロッパ、
アメリカまでやってきているので、
一度くらい来たっていいのじゃないかと、
そうすることでオリンピックは世界の文化になる。
IOCが東京での開催を望まないということは、
オリンピックが本当の意味で世界の文化になることを
望まないということになるので、
IOCが間違っているということを、
嘉納は訴えたかったということだと思います。
ナレーター:さらに嘉納は、委員たちにこう宣言します。
嘉納:日本で開かれないのなら、東京で別の国際大会を開催する。
ナレーター:一か八か、覚悟の言葉でした。
翌日の投票結果は・・・・・
36対27で、東京が見事勝利。
日本初のオリンピック開催が決定した瞬間でした。
田辺:一夜明けた8月1日朝刊各紙が一面で、開催決定を報じました。
見出しには、「東京 遂に勝てり」の文字が。
そして各地で音楽会など祝賀の催しが開かれて、
日本中にオリンピックブームが湧き起こったのです。
開催を記念する様々な商品も発売されました。
電車の記念乗車券や湯飲み、五輪のマークがデザインされた年賀状、
それにレコード針のケース。
いやあ、時代を感じますね。
実際には行われず、歴史から消えていってしまいそうな
1940年のオリンピック東京大会。
1964年のオリンピック東京大会は目立ちますが、
その向こうにある1940年の大会は
存在が見えていませんでした。
2014年放映の「幻の祝祭 ~1940東京オリンピック物語~」と、
今回の「にっぽん!歴史鑑定 幻の東京オリンピックと嘉納治五郎」で、
私には十分存在感が感じられるようになってきました。
当たり前ですが、当時の人たちにとっては大事件だったと思います。
つづく
コメント