「学校の『当たり前』をやめた。」その5/「行動の教育」は私自身にも
今日は2月11日。
前投稿に引き続き、
「学校の『当たり前』をやめた。」
(工藤勇一著/時事通信社)より、引用します。
私はよく教員に,「どうでもよいことと、どうでもよくないことを、
分けて叱りませんか」と話しています。
どうでもよいことなら軽く注意を促せばよい。
逆に、命や人権に関わること、差別や暴力といった行為には
厳しく対応し、自身の言動の意味を認識させる必要があります。
(50p)
これまたなるほどです。
叱る時にはこの言葉を忘れずに。
う~ん、忘れそうだけど、何度も思い出し、
自分の中に定着させたいですね。
具体的な例を挙げて考えてみましょう。
ここに、全く正反対の2人がいるとします。
一人は「心の底から優しいことをしたいと思っているのに、
人目を気にするあまり、行動できない人」
そしてもう1人は、「決して純粋な理由ではないけれども
よいことを行っている人」。
どちらの人がより価値があるでしょうか。
人は行動の積み重ねで評価されていくものだと私は思います。
そもそも人の心の中など簡単に分かるものではないとも思います。
私自身、いまだに自分の心さえ、よく分からないことがあります。
そもそも「心はみんな違っていい」はずです。
人の価値観、考え方はみんな違ってよいのです。
私は生徒たちに、人は行動こそが大切だという
「行動の教育」を伝えていきたいと思っています。
かの孔子が、論語の中で「70にして心の欲する所に従って
矩(のり)を踰(こ)えず」(自分の心のまに行動しても、
人の道を外さなくなったのは70歳になってからとのこと)
と語っています。
あの孔子でさえも、70歳になっても意識して
自らの行動をしている。人生の最後のステージに差しかかっても、
そうした努力をしていたことに感動します。
(60~61p)
よかれと思ったことは行動する。
行動を積み重ねる。
生徒だけでなく私自身も行動すること、
私は「行動」よりも「動く」と表現しているかな。
とにかく「動く」 こころがけたい。
現在の学校教育を見渡すと、
目的と手段の不一致はもちろんのこと、
手段自体が目的化されているようなケースがたくさんあります。
加えて、そうした矛盾に多くの人が気が付いていないか、
あるいは「見て見ぬふり」をして、
何らアクションを起こさないでいることについて、
なぜなのだろうと、私はずっと考えてきました。
今こそ、目的と手段の不一致がないか、
徹底的に検証していく必要があります。
そのスタート地点として、「学校は何のためにあるのか」という
根源的な問いに立ち返って、読者の皆さんと一緒に
考えてみたいと思います。
「はじめに」でも書いた通り、学校は人が
「社会の中でよりよく生きていける」ようになるために
学ぶ場所です。そしてその結果として、
学校で学んだ子どもたちが将来、「より良い社会をつくる」
ことにつながっていくと考えます。
勘違いしてはいけないのは、「学校に来る」こと自体は、
社会の中でよりよく生きていけるようにするための
一つの「手段」にすぎないということです。
たとえ、何らかの事情で学校に行けなくなったりしても、
学校以外にも学びの場はありますし、
社会とつながることだってできます。
勉強だってできるし、
もちろん立派な大人になることができます。
逆に、学校にきて学習指導要領に定められた
カリキュラムをこなしても、知識を丸暗記してテストで
よい点をとれるようになっても、
社会でよりよく生きていけるとは限りません。
この点について、私たちはもっと柔軟に考えられるように
なっておきたいものです。
(64~65p)
もう少し学校に関われる身です。
このタイミングで、本「学校の『当たり前』をやめた。」に
出合えたことをラッキーと思って、考えていきたい。
pixabay スイスの建国記念日?
もう1本書く。つづく。
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