映画「聲の形」を見た/監督も原作者も若い!
今日は11月15日。
前投稿の続きで、8月25日放映の映画「聲の形」の
感想を書いていきます。
次のサイトの文章を引用しつつ、書いていきます。
聴覚障害を抱えた方というのは「聞く」だけでなく
「話す」能力にも問題を抱えていることがほとんどであり、
本作の硝子もうまく話すことができず、
発声しようとするとどうしても
「うめき声」に近い声になってしまいます。
早見氏はこうした「聴覚障害者の声」をよく研究し、
実に生々しく演じているわけです。
繊細な線の可愛らしいキャラクターや耳に優しい音楽、
そして色とりどりの美しい背景、
アニメとして非常に快い世界が作り上げられているからこそ、
この硝子の「声」が持っている異物感は強調され、
ある種の「ギョッとする」感覚を観るものに与えます。
特に授業中、先生に指示されて硝子が教科書を読むシーンは、
初めて観客が硝子の「声」を耳にする瞬間であり、
かなりショッキングだと言えます。
この視点はすごいなと思いました。
映画を見た後に、何となくそう思っていたことを、
こうやって文章化して見せてくれたことで、
なるほど!と思えます。
実際に「ギョッとする」体験をしています。
「聲(声)」に関する記述は続きます。
本作における「聲(声)」は、
一般的な「他者とのコミュニケーション手段」
としてのみならず、「他者」そのものの象徴として
非常に重大な役割を担っています。
細やかな演出と早見氏の的確な演技によって
鮮やかな印象を残す硝子の「声」は、
彼女の「他者性」を明確に表しているわけです。
(中略)
また合唱コンクールの練習風景でも硝子の声の異質さ、
「他者」としての異物感が強調されることで、
「これはいじめの標的になるのもわからんでもない…?」
という嫌な感覚を生じさせます。
つまり恐ろしいことに本作は瞬間的に「いじめっ子の視点」に、
もっといえば「他者を差別する者の視点」に
観客を同化させるわけですね。
この時に刺さったトゲは、
映画を観ている間じゅう観客の心に残り続けます。
ここで言う「他者」は「たしゃ」ではなくて、
「よそもの」の「他者」と思われます。
排除される可能性のある「他者」です。
そう、この映画はなんといっても山田が素晴らしいのです。
リスペクトが一周回ってつい呼び捨てにしてしまいましたが、
もちろん山田尚子監督のことです。
出世作の『けいおん!』、映画『たまごラブストーリー』の監督、
そして恐るべき傑作『響け!ユーフォニアム』の
シリーズ演出などでアニメファンにはとっくにおなじみですね。
さらに本作『聲の形』によって、
もはや名実ともに(映画監督など全部ひっくるめて)
日本最高峰の「映像作家」の一人になったことは間違いないでしょう。
それならば、今度は「響け!ユーフォニアム」を見てみようと
思わせられた文章です。
山田尚子さんの姿は、前投稿で紹介した動画にあります。
まだまだ若い!
ちなみにその動画も充実した内容。
まだ見ていなかったら見てみてください。
監督も若いけど、原作者の若さにも驚きます。
「聲の形」を書き上げたときの年齢が19歳!
さらに誤解してましたが、女性です。
今の若者はすごい!?
大垣市出身の原作者であるため、映画でも舞台は大垣市です。
山田監督は本作を作るにあたって
「手は花であり、ひとつのキャラクターである」
と語っています(パンフより)。
たとえば手話のシーンにそれは顕著で、
手話モデルさんが演じた手話を動画で撮影し、
それを参考に(細かな監修を加えつつ)作画するといった
手順を踏むことで、非常に精緻な「手」の動きを生み出しました。
手が出てくるシーンの演技のつけ方も実に繊細です。
たとえば「友達になれるかな」のシーンで
将也は自分の手元しか見ておらず、
将也が硝子に対して感じている「負い目」がよく表れています。
しかし同時に「手の甲を押し出すように握る」といった指示によって、
「友達になりたい」という将也の強い感情を
言葉に頼らず表現しているわけですね。
「手は口ほどにものを言う」ということわざ(?)を
見事に体現している映画なのです。
見たぞ!印象に残っているぞ!このシーン。
「またね」の手話は、この映画で最も印象に残った手の形でした。
いつか映画の写真を撮って、ここに↓載せたい。
今朝は忙しい。
そしてもうひとりのキーパーソン、将也たちと一緒に
硝子をいじめていた女子・植野さんのキャラクターも素晴らしい。
イジメ加害者の一人であり、それに対する反省も(将也に比べれば)
全くしておらず、歴代アニメのキャラの中でも群を抜いて
性格の悪い部類に入るでしょう。
それでもどこか嫌いになれない、
感情移入してしまう側面もある女の子です。
人々の悪意を黙って笑いながら受け流す硝子に対して、
ある意味では最も真正面からぶつかっていったキャラでもあります。
ラスト2行が印象に残ります。
こういうことにいらだつ人物は存在すると思う。
「いじめの被害者(それも障害者)がいじめの犯人を
好きになるなんて絶対ありえない」という考え方は
倫理的には正しいようですが、
硝子という固有の人格をもった存在を
「被害者ならこう思うにちがいない」
「障害者ならこうあるべきだ」という枠に押し込め、
それこそ彼女の「声」を奪ってしまう
危険性もあるのではないかと感じます。
将也を好きになってしまったことは確かに硝子にとって
「エラー」だったのかもしれないし、
そのエラーがさらに新しい「過ち」を引き起こすかもしれないし、
次なる悲劇の始まりかもしれない。
その危うさは本作でもしっかりと描かれています。
それでも自分の過ちを見つめ、時にはそれを認めて謝罪し、
時には感謝の気持ちを伝え、
他者と心を通わせるのを諦めなければ、
その「エラー」同士が響き合い、
予想もしなかった救いをもたらしてくれることもある。
間違いだらけの人々がそれぞれ響き合う
「声(聲)」なのだとすれば、
「(エラーも含めて)響き合う多様な声」こそが
この世界の豊かさである、ということが
『聲の形』では描かれているのだと思います。
「他者と心を通わせるのを諦めなければ」・・・
この文章は、今まで接してきたたくさんの
子どもたちを思い出します。
こちらの思いも、子どもの思いもお互いうまく伝わらなくて、
もう会うのも嫌だと思うことがあっても、
何かの弾みで伝わることがあるんだよなあ。
この映画も、離散集合が混沌としていた映画でした。
すでに7千字くらい書いており「…で、誰が読むの?この長文」状態に
なってしまっているので、いったん切りたいと思います。
じっくり、引用させてもらいながら読みました。
映画「聲の形」をより深く味わうことができた文章でした。
ありがとうございました。
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