ポンペイ3/ネロのことを書いた落書き/「パンと見世物」
今日は7月5日。
7月3日は公開授業を実施。
どうにかやり切って、その晩はビール2缶で祝杯でした。
授業を見た先生から「楽しい授業でした」
「先生も楽しそうでした」
という声をいただきました。
見せたい、教えたいと思うものを実行に移しているので、
自分も楽しそうに見えたと思います。
実際に楽しんでいました。
教師はやっぱり「教えたい」という
おせっかいな気持ちの強い人がなる職業。
その欲求がある程度満たされた授業だったと思います。
さて、話はポンペイです。
7月1日の記事の続きです。
昨晩、見ていた番組「地球ドラマチック 皇帝ネロの捜査ファイル
~暴君は真実か?~」(2018年5月19日放映)の中で、
ポンペイの落書きが紹介されました。
聞き書きします。
ナレーター:西暦79年。ローマから200km離れたポンペイは、
火山の噴火によって街全体が灰に埋まりました。
発掘された街並みから、ネロが市民に愛されていたことを示す
証拠が見つかっています。
壁に記された文字。
人々の思いが表された落書きです。
レベッカ:80個の落書きが見つかりました。
当時のポンペイに暮らした庶民が書いたものです。
街のあちこちに残されていました。
民家や台所の壁にです。
ネロの名前が書かれた落書きもありました。
しかも、どの落書きにも、否定的な内容は
一切見当たりません。
ですから、これらの落書きは、皇帝ネロがいかに
人気者だったかを伝えるものと言えます。
ナレーター:落書きの一つは、奴隷の身分だったコクタという
男性が書いたもので、自分の名前のとなりに、誇らしげに、
ネロの名を記しています。
剣闘士の養成所を卒業した若者たちが書いた落書きもあります。
彼らは自分たちをネロ養成所出身者と称し、
そのしるしを壁に刻みました。
レベッカ:ネロへの強い支持を表す証拠と言えるでしょう。
ポンペイでは剣闘士の試合が10年間禁止され、
人々は不満を募らせていました。
そんな状況でネロが試合を行ってもよいと許可したんです。
市民は喜び、ネロの人気が高まりました。
ナレーター:「パンと見世物」
それは古代ローマの皇帝たちが、人気を得るためにもちいた戦略です。
皇帝ネロが亡くなったのは西暦68年。
ベスビオ火山噴火の約10年前。
まだそれほど間が経っていない。
皇帝ネロと同じ時を過ごした人たちの落書きの可能性が
高いと思いました。
落書きのどの部分が「ネロ」なのだろう?
ここかなと思う場所を切り取って載せます。
どうでしょう?
ポンペイの落書きは興味あり。
そのことについて書いた本はあるようです。
思い立った時が勉強のタイムリーな時。
図書館に1冊予約しました。
この本です。
この本を読んで、またこのブログに書き留めていきたいです。
「パンと見世物」についても調べました。
次のサイトがよかったです。
一部引用します。
「パンと見世物(パヌム=エト=キルケンセス)」のパンとは
穀物つまり小麦のことで、穀物の特別価格での販売とか、
無料配布が国や有力者の手で行われていた。
見世物はサーカスともいわれるが現在のサーカスのことではなく、
競技場での戦車競争とか、円形闘技場での剣闘士試合、
ライオンと剣奴の闘いなどのことで、
これらも国や有力者が主催して無料で市民に提供されていた。
剣闘士試合が行われた円形競技場として最も有名なもが
ローマのコロッセウムであった。
カエサルなどの有力者が盛んに剣闘士競技や戦車競争を開催して
市民の人気を集めた。
また属州から多くの穀物がローマにもたらされるようになると、
ローマ市民の特権として穀物(小麦)が配給されるようになった。
ローマ帝国時代になると、アウグストゥス以降の皇帝たちは、
市民に対する穀物の提供と見世物などの娯楽の提供が
政治の安定につながるので、盛んにそれを実施した。
しかし、それらは帝国の財政を苦しめることにもなるので、
後には緊縮策を採る皇帝もあった。
以前勉強した覚えのある用語です。
高校生の時に目に触れたと思います。
およそ40年ぶりに出会いましたね。
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