真田丸シリーズ14.第一次上田合戦の予習
今日は4月3日。
前投稿に引き続いて大河ドラマ「真田丸」のことを書きます。
1月14日放映の
「片岡愛之助の解明!歴史捜査 家康を瀬戸際まで追い詰めた男!
真田信繁と父・昌幸 智謀の系譜を追え!」より。
第一次上田合戦の様子を説明してくれていました。
ナレーターの説明を聞き書きします。
これは第一次上田合戦を記録した合戦図だ↓
真田軍は上田城に籠城。
対する徳川軍(赤)が出撃すると、
上田城から長男信幸率いる隊(青)が迎撃。
しばらく刃(やいば)を交えると、
信幸は上田城に退却する。
追いすがる徳川軍は、勢いに乗じ、上田城の城内まで突入。
二の丸まで攻め込んだ。
だが、これこそ昌幸が仕掛けた囮(おとり)作戦だった。
囮とは知らず城内まで攻め込んだ徳川軍。
真田軍の猛反撃で城外まで押し戻された徳川軍は、
正面の敵に集中していた。
その時、徳川軍は思いもよらぬ方向から攻撃を受ける。
突然、昌幸が潜ませていた伏兵が現れ、徳川軍の側面を攻撃。
徳川軍は大混乱となった。
昌幸が伏兵を潜ませていたのが、上田城の東北東、
5㎞先にある砥石城だった。
そこで砥石城跡を現場検証。
↓正面に見えるのが、砥石城があった山だ。
断崖が刃物を研ぐ砥石に似ていることから、
その名がついたと言われている。
なぜここに、昌幸は伏兵をしのばせたのか。
実際に登ってみた。
かなり急な斜面であることがわかる。
30分で頂上に到着。
砥石城跡からは、上田市内が一望できた。
上田城の様子も良く見えたのに相違ない。
つまり、砥石城の伏兵は、徳川軍に気づかれることなく、
ここから出撃のタイミングをうかがっていたのだ。
さらに、3倍の兵力を持ちながら大混乱に陥った徳川軍は、
上田城の東南東、神川(かんがわ)のほとりまで退却。
だが神川沿いには、昌幸が築いた千鳥がけの柵が造られていた。
退路を断たれた徳川軍は、身動きがとれなくなり、
さらに犠牲者を増やした。
その上ようやく神川にたどり着いた徳川の兵は、
今度は増水した川にのまれ、
溺死者は多数にのぼったと言われている。(中略)
徳川軍は、上田城の南東、11㎞離れた八重原まで敗走。
退却した徳川軍の陣城(じんじろ)の跡地を
歴史学者の平山優さんと現場検証をした。
ここが徳川軍の陣城があった鍋蓋曲輪(なべぶたくるわ)と
呼ばれる場所↓
かつて武田軍が鍋の蓋を置き忘れたことから、
この名がついたと言われ、
上空から見ると、楕円形であることがわかる。
この鍋蓋曲輪の立地から、徳川軍は軍勢を立て直し、
もう一度上田城を攻める気だったことがわかると言う。
平山:ここは上田小県(ちいさがた)方面にすぐに進出できるという
非常に地の利のいい場所にあります。
ここに徳川軍がいったん退却して
そしてもう一回上田方面に進出しようとしたと
考えられます。
だが、昌幸の知略がそれを許さなかった。
真田軍は徳川軍を追撃。
昌幸は尾野山城、長男信幸は丸子城に入り、
態勢を立て直す暇(いとま)も与えず、八重原を攻撃。
徳川軍は撤退を余儀なくされた。
国衆でありながら、戦国大名徳川の3倍を超える軍勢に勝利した
父、真田昌幸の智謀。
これが初陣になった可能性が高い信繁は、
その智謀をまさに目の当たりにしたと考えられるのだ。
以上で、第一次上田合戦の予習は修了。
30分遅れですが、録画してある大河ドラマ「真田丸」13話を
見ることにします。ああ、楽しみだ。
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