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2015年3月16日

2015年3月16日 (月)

15日に縁のあったふきのとう、アシタバ、アサリ

  

今日は3月16日。

  

昨晩(15日)の夕飯はちょっと特別でした。

「ふきのとう」と「アシタバ(明日葉)」の天ぷらでした。

「ふきのとう」は奥さんの実家産です。

毎年頂いています。大好物です。

「アシタバ」は家の裏で栽培しているそうです。

全然知りませんでした。

今が旬なのだそうです。

最近はダイエットのためにご飯を少なめにしていましたが、

昨晩は食が進んでしっかりと食べました。

  

  

15日朝の放映「さわやか自然百景 愛知 六条潟」は勉強になりました。

まずは、愛知県がアサリの漁獲高日本一だと聞いて驚きました。

そうだったのですね。

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豊川(とよがわ)の河口左岸にあるのが六条潟。

ここにはたくさんのアサリが生息しているそうです。

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なぜアサリがたくさん生息しているのか?

理由の一つとして、砂粒の大きさをあげていました。

  

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干潟にいるアサリを持ち上げると、こうやって砂粒がついてくるそうです。

これってどういうことだと思いますか?

想像もつきませんでした。

アサリは透明な糸を出して、砂をつかんでいるのだそうです。

その理由は、波に流されないためです。

そのため、この糸のことを「固定糸」と言うそうです。

※固定糸についてはこのサイトを参考にしました↓

東京湾の漁師 東京湾海人の日記 アサリの糸part2

つかむのにちょうどいい砂が六条潟には豊富にあるのだそうです。

  

こういう番組を見ると実物を見たくなります。

サークルをやっている場所から近い場所に六条潟があります。

ぜひ行ってみたい。

そのついでにアサリを持ち上げて、固定糸を見てみたいですね。

その時には、ブログに書きます。

20150310報告5/教科について 表現によるコミュニケーション

  

今日は3月16日。給料日。

  

前投稿のつづき。

村上公也先生の指導案「教科について」を引用しています。

次の文章も過激です。

  

「次の文章の要旨を30字以内にまとめよ」というような課題は,

言葉による文章という断片的な表現を

別のいっそう断片的な説明に変換する作業にしか過ぎない。

従来の教育が,こんな学習ばかりさせてきたから,

本当に大事なものが抜け落ちてしまっているのではないだろうか。

いくら説明できることが増えたとしても,

リアリティがないと充足感には至らない。

だから説明できても,そのことを主体的に

生活に生かすことにはつながらないのだ。

表現することへの意欲や喜びにはつながらない。

  

  

要旨をまとめよという課題に対して、疑問に思ったことはないと思います。

厄介だけどやらないとなあと思って、自分もやってきたし、

子どもたちにも課してきました。

特別支援学級担任になってからは、子どもたちには難度が高いと判断して、

省略していました。

表現することへの意欲や喜びにはつながらないと確かに思います。

しかし、要約する力はいるのか?

あまり今まで考えてこなかったこの課題について考えさせられています。

  

   

自閉傾向のある子ども,特に発達に遅れのある子どもは,

名前と決まりきった定型文しか書けないとか,

自分の思いや想像を文字や言葉にできないとかの理由は,

想像性の欠如という特性からきているというのは,

明らかに間違ったアセスメントである。

このような考えは,文字を教えたら,

それだけで自分の思いや想像を文章にできるという

短絡的な考えからきている。もう笑うしかない。

   

  

「もう笑うしかない」という言葉は、普通の指導案には出てきませんよ。

村上先生の文章はさらに続きます。

大人でもハッとさせられる文章に関してです。

  

  

読んだり書いたりした借り物の「正しい」形式的な話や文章が,

自分の思うすべてだと思い込んでしまうようなことがあってはならない。

オリジナルの思いや想像は,言葉や文字に縛られない

際限のないほど広く豊かなものであるはずなのに,

読んだり書いたりできる技術の範囲内に閉じ込めてしまってはならない。

月並みなフレーズの借り物の「正しい」形式的な話や文章の学習を

繰り返し教えられているうちに,

それが本当の自分の思いや想像だと勘違いしている子どもは

多いのではないだろうか。

たぶん,そのような教育を受けきた大人も多いと思われる。

形式的な「正しい」ことよりも,

自分が自分たり得るオリジナリティ,想像性,創造性が重要である。

そして,それを表現することである。

また,そこで起こる表現者同士の相互作用である。

この魂の交信ともいえる重要なコミュニケーションを

月並みで俗っぽい「正しい」という範囲に限定してはいけない。

  

   

ブログを書いて表現している身には、この言葉はグサリときます。

何かを見たり体験して思ったことを、ブログ上で表現したいと思った時に、

はたして十分に表現しているかどうか?

どこかで誰かが書いていたようなフレーズで終わらせていることもあるなあ。

そう反省します。

この「教科について」の文章のように、思いがストレートに出ていると、

書いた人の気持ちがよくわかります。刺激的です。

そして「教科について」のまとめの部分です。

  

説明は,客観性や正確さが要求され,表面的に理解はできたしても,

その根底にある精神は伝わらない。

説明の域では,本当の意味で説得力がない。

当然,手応えも実感もない。

説明ができるようになったとしても,

本当の意味でのコミュニケーションは成立しない。

「正しい」とか「正しくない」という陳腐な枠を超えて,

自分の心の内の自分のオリジナルな世界を何とかして表現すること,

その表現が他に及ぼす影響を感じ取ることこそ,

最も重要なことだと思う。

つまり,表現している時,一部自分も受け取る側にもなるのだ。

また,他人の表現を受け取る側になった時は,

同時に一部表現者に立った視線を持つこともできる。

この状況がまさに表現によるコミュニケーションであり,

伝達を前提とする説明などとは,まったく違うところなのである。

  

  

村上先生の「表現」に対する考え方は、美術的なのでしょうか?

右脳的なのでしょうか?

型に頼らず、思いを表現することは、

評価をしないといけない教育の世界では、

そういう領域はあるよなと感じつつも、

遠巻きにして近づかなかった領域でもあると思います。 

私自身も教育されてこなかったし、教育してこなかったことです。

何回も書いてきたように、村上先生の「発想と実行力」はすごいです。

それって「表現」しているんだよなあとふと思います。

こうすれば面白い、こうすればいいぞと思ったことを、

既成概念にとらわれずに表現したいろいろな教育手法が、

他の先生をうならせると思います。説得力があると思います。

  

   

この「教科について」をこうやってブログ上に転載したことで、

また読み返すこともあるでしょう。

何回も読んで理解していきたいし、他の人の意見も聞いて、

理解を深めていきたいと思う。

とても過激で刺激的な「教科について」でした。

  

 

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