今晩大仏殿が炎上する
今日は12月9日。
今晩の大河ドラマ「平清盛」で、東大寺の大仏殿が炎上し、大仏も溶けてしまう話です。
南都焼き討ちとは?次のサイトから引用します。わかりやすい。
治承4年(1180年)12月28日。
平重衡(たいらのしげひら:清盛の子。24歳)、平通盛(たいらのみちもり:清盛の甥。教盛の子。)率いる平家軍が、
東大寺・興福寺の僧兵と戦ってこれを破り、その兵火で東大寺・興福寺が焼け落ちた。
東大寺・興福寺は挙兵に失敗した以仁王を支持して平家と敵対していた。
この年、清盛が福原遷都を強行したのも、これらの寺社勢力から逃れるためだった、と言われている。
しかし、強引な福原遷都の評判はすこぶる悪く、11月にはやむを得ず京都に戻っていた。
京都に戻った清盛は南都を攻めると盛んに吹聴し、
南都の僧兵らも鞠を清盛の首に見立てて踏んだり蹴ったりして挑発していたという。
この日、南都勢は奈良坂、般若坂に盾と逆茂木を並べて防塞を構築していたが、
平家の騎馬武者が僧兵もろともこれを蹴散らし、戦いは平家の勝利で幕を閉じた。
東大寺や興福寺が焼け落ちたのは、重衡が夜になって周囲を明るくするために、
民家に放った火が瞬く間に延焼したため、といわれている。
※以下は「ビジュアル源平1000人」(世界文化社)を参考にして書きます。
平重衡は清盛の5男。美男子で有名で、4男の知盛ともに平家の軍事面で活躍しました。
重衡が参戦する戦いは、この南都攻め、墨俣川、水島、室山と連戦連勝。
しかし不覚をとったのが、一の谷の戦い。
ここで重衡は生け捕りにされます。
重衡は鎌倉に連行されますが、頼朝の前で
「敵に捕われたことは恥ではない。早く斬罪にするように」と言い、
御家人たちを感動させたそうです。
重衡の器量に頼朝も心をうたれたそうです。
1年後、重衡は東大寺の大衆(だいしゅ=多くの僧の集まり)に引き渡され斬首。
焼き討ちの責任者として、首は奈良坂に晒(さら)されました。
平家の長男重盛、4男知盛、そして重衡。平家も人物は優れていました。
勝つも負けるも時の運。
次のサイトもいい勉強になりました。
これだけ勉強して、今晩の「平清盛」を楽しみたい。
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