沢村栄治8.最後/最期
今日は4月27日。
前投稿のつづき。
昭和13年(1938年) 沢村栄治さん、中国戦線へ~昭和15年除隊。
昭和15年(1940年) プロ野球に復帰。7勝1敗。
昭和16年(1941年) 9勝5敗。2度目の入隊。フィリピン戦線へ~昭和18年除隊。
※広瀬習一巨人軍に入団。16~17年と活躍する。
昭和18年(1943年) プロ野球に復帰。0勝3敗。
投手として最後に出場したのは、昭和18年7月6日の阪神戦。
1回に2死までとったが、その後ストライクが入らなくなりました。4連続四球で押し出し。
四球の押し出し、という屈辱的なことは、栄治にとってじつに生まれて初めての経験だった。
ストライクがどうやってもとれない。
栄治にとって辛く悲しい時間が続いた。
「針の穴を通す」とまで言われ、抜群のコントロールを誇った栄治が、一個のストライクをとれないでいた。
どうしたことだろう、巨人軍のベンチも観客席も息を呑んでじっと栄治の投球を見つめていた。
野次る者など、一人もいなかった。
異様な静けさが球場全体を覆っていった。
今、五千五百人を超えるファンは、大投手の終焉を目の当たりにして言葉を失っていた。
それは、あたかも大木がぎりっ、ぎりっと軋(きし)みながら朽ち果てていくようだった。 (264p)
昭和18年10月24日。「代打沢村」と監督が告げました。
阪神戦。ピッチャーは、以前ブログで書いた若林忠志投手。
第1球を投げた。
栄治のバットが素早く回転した。栄治は初球から打っていったのだった。
青く高い空に、ボールがゆるゆると上がった。三塁へのファウル・フライだった。
これが最後だった。すべて終焉だった。
「天才投手」として才能をうたわれ、職業野球に身を投じた栄治の戦いは、
今静かにその終わりを告げたのだった。 (268p)
昭和19年10月2日。沢村栄治さんのもとに3度目の召集令状が届く。
11月13日。京都・伏見連隊に入営。
12月1日。沢村栄治さんが所属する輸送船団が、門司港からフィリピンへ向かう。
12月2日。輸送船が、アメリカ潜水艦の魚雷を受ける。沢村栄治さん戦死。
大人の都合と戦争によって、野球で十分に活躍できなかった沢村さんの人生を勉強できました。
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