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2011年10月18日

2011年10月18日 (火)

方広寺に行ってきました

  

今日は10月18日。

番組「ザ・今夜はヒストリー」で、大坂冬の陣が扱われる前夜。

    

【大坂冬の陣】

慶長19年(1614)冬、京都の方広寺の鐘銘事件を口実に徳川家康が豊臣氏を大坂城に攻めた戦い。

豊臣秀頼の軍の奮戦で城は落ちず、いったん和議を結んだ。

和議の条件として、大阪城の堀が埋められる。

これによって大阪城の守りは大幅に減少。その状態で夏の陣を迎えることになる。

     

はたして明日の番組ではどの辺りに焦点が絞られるかな。

   

徳川家康が大坂冬の陣の口実にした方広寺鐘銘事件とは。

 

【方広寺鐘銘事件】

方広寺は、豊臣秀吉が、1586年に作ったお寺。

大仏が大仏殿の中に置かれ、その大きさは19mあったそうです。

東大寺の大仏が18m(台座を含む)ですから、それ以上あったわけです。

しかし大仏は、1596年の大地震によって壊れてしまい、

大仏殿もいたみます。

徳川家康のすすめによって、秀頼が方広寺大仏殿を修復することになりました。

何年もかけて大仏と大仏殿が修復された1614年に、大梵鐘(ぼんしょう)も鋳造されます。

しかし、その鐘に記された銘文に家康がいちゃもんをつけます。

「国家安康」は家康の名前が切られていること、

「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を祈願して、

徳川家に対するのろいが込められていると断定しました。

これが方広寺鐘銘事件。これによって家康は大坂城に軍を進めました。

     

この鐘は今も残っています。

その鐘を見るために、修学旅行の1日目(9月25日)に方広寺に行ってきました。

その時の写真。

   

RIMG0060

鐘楼

    

RIMG0103

大梵鐘。

高さ4.2m 外径2.8m 厚さ27㎝ 重さ82.7トン

(方広寺拝観の栞より)

    

鐘に白く縁取られたところあり。

これが問題になった銘文です。

アップで写してみました。

   

RIMG0096

1614年の歴史的な事件のきっかけになった銘文が、

400年近く経った今も、こうやって見ることができるのはすごいこと。

秀頼も家康も見たのでしょうか。

写真では何度も見た銘文を、しっかり見てきました。

    

方広寺入口には、巨石が並びます。

RIMG0114

「大仏殿石垣」と書かれた石塔が立っていました。

ここに高さ50mの大仏殿が建っていたのでしょうか。

大坂城もすっぽり入る大きな建物でした。

※参考「幻の方広寺大仏2」html・・・大仏殿と大坂城の大きさ比較がわかりやすいです。

   

大仏の10分の1のサイズの仏像が、本堂にありました。

RIMG0071

※参考「幻の方広寺大仏1」html・・・方広寺の見どころがコンパクトにまとめられています。

    

今は大仏殿も大仏もありません。

しかし、名残りは残ります。

RIMG0119

方広寺付近で見つけた郵便局。

名前は「京都大仏前郵便局」

大仏は失われましたが、地名は残りました。

  

以上で方広寺報告終わり。

   



 

 

 

なぜ「大坂」が「大阪」になったか?

    

今日は10月18日。

今晩放映の「教科書にのせたい」は、愛知県のことが扱われます。

半田市の新美南吉記念館近くの矢勝川。

秋になるとヒガンバナがたくさん咲く場所です。

昨年は見に行ってきました。

「ヒガンバナを見てきました/矢勝川のヒガンバナ」(2010年10月3日)html

  

そのヒガンバナを植え始めた人の話が放映されるそうです。

上記の投稿で紹介した「中日新聞お出かけニュース」によると、

幼少時に南吉と遊んだこともあるという小栗大造さんが

「童話の舞台の堤をキャンバスに、ヒガンバナで真っ赤な風景を描く」という思いで

平成2年から球根を植え始めたとのこと。

この小栗さんが紹介されるのでしょう。

    

明日の晩は、「ザ・今夜はヒストリー」がいい。

次回の大河ドラマ「江~姫たちの戦国」が、大坂冬の陣をやるにあたって、

偶然にも「ザ・今夜はヒストリー」も内容が大坂冬の陣です。

Main_29大坂城

http://www.doco-ico.net/staff/osaka/vol_29.html  

     

大坂冬の陣にゆかりのある京都の「方広寺」に行ってきたので、

そのことを書こうと思いましたが、

その前に、「大坂」「大阪」について。

なぜ「大坂」が「大阪」になったか、このブログにも書いておこうと思います。

   

「大坂」の「坂」は、「土に返る」ということで縁起が悪いということで、

「阪」い変わったと覚えています。

他にも説がありました。

次のところから引用します。

「Yahoo知恵袋/大坂→大阪」85

   

漢字の表記は当初「大坂」が一般的であったが、

大坂の「坂」の字を分解すると「土に返る」と読めてしまい

縁起が悪いということから、江戸時代ころから「大阪」とも書くようになり、

明治時代には逆に大阪の字が定着する。

一説に「坂」から「阪」への変更は、

明治新政府が「坂」が「士が反する」、

すなわち武士が叛くと読めることから「坂」の字を嫌ったとも、

単に、役人の書き間違えの言い訳から定着したともいう。

     

「士が反する」説は面白い。

とにかく、大阪冬の陣の頃は、「大坂」です。

次の投稿で「方広寺」のことを書きます。

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