方広寺に行ってきました
今日は10月18日。
番組「ザ・今夜はヒストリー」で、大坂冬の陣が扱われる前夜。
【大坂冬の陣】
慶長19年(1614)冬、京都の方広寺の鐘銘事件を口実に徳川家康が豊臣氏を大坂城に攻めた戦い。
豊臣秀頼の軍の奮戦で城は落ちず、いったん和議を結んだ。
和議の条件として、大阪城の堀が埋められる。
これによって大阪城の守りは大幅に減少。その状態で夏の陣を迎えることになる。
はたして明日の番組ではどの辺りに焦点が絞られるかな。
徳川家康が大坂冬の陣の口実にした方広寺鐘銘事件とは。
【方広寺鐘銘事件】
方広寺は、豊臣秀吉が、1586年に作ったお寺。
大仏が大仏殿の中に置かれ、その大きさは19mあったそうです。
東大寺の大仏が18m(台座を含む)ですから、それ以上あったわけです。
しかし大仏は、1596年の大地震によって壊れてしまい、
大仏殿もいたみます。
徳川家康のすすめによって、秀頼が方広寺大仏殿を修復することになりました。
何年もかけて大仏と大仏殿が修復された1614年に、大梵鐘(ぼんしょう)も鋳造されます。
しかし、その鐘に記された銘文に家康がいちゃもんをつけます。
「国家安康」は家康の名前が切られていること、
「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を祈願して、
徳川家に対するのろいが込められていると断定しました。
これが方広寺鐘銘事件。これによって家康は大坂城に軍を進めました。
この鐘は今も残っています。
その鐘を見るために、修学旅行の1日目(9月25日)に方広寺に行ってきました。
その時の写真。
鐘楼
大梵鐘。
高さ4.2m 外径2.8m 厚さ27㎝ 重さ82.7トン
(方広寺拝観の栞より)
鐘に白く縁取られたところあり。
これが問題になった銘文です。
アップで写してみました。
1614年の歴史的な事件のきっかけになった銘文が、
400年近く経った今も、こうやって見ることができるのはすごいこと。
秀頼も家康も見たのでしょうか。
写真では何度も見た銘文を、しっかり見てきました。
方広寺入口には、巨石が並びます。
「大仏殿石垣」と書かれた石塔が立っていました。
ここに高さ50mの大仏殿が建っていたのでしょうか。
大坂城もすっぽり入る大きな建物でした。
※参考「幻の方広寺大仏2」html・・・大仏殿と大坂城の大きさ比較がわかりやすいです。
大仏の10分の1のサイズの仏像が、本堂にありました。
※参考「幻の方広寺大仏1」html・・・方広寺の見どころがコンパクトにまとめられています。
今は大仏殿も大仏もありません。
しかし、名残りは残ります。
方広寺付近で見つけた郵便局。
名前は「京都大仏前郵便局」
大仏は失われましたが、地名は残りました。
以上で方広寺報告終わり。
失礼します。ちょっとした機会がありまして、方広寺の鐘銘のことを電子出版しました。貴方の写真とも関連しますので、読んでいただきたいと思いましてメールを差し上げました。貴方の写真がとても参考になるような気がします。
インターネットの検索窓で 山田武司 としていただいてそこに行って
山田武司<WOOK(ウック)とあるのをクリックしていただくと、方広寺鐘銘の話とあるのがそれです(無料です)。この電子出版の主催者は一部上場企業の事務用品
メーカーのキングジムです。よろしくお願いします。
投稿: 山田武司 | 2013年9月22日 (日) 18:21
山田武司さん、コメントをありがとうございます。
「方広寺鐘銘の話」をさっそく読みました。
自分は「国家安康」「君臣豊楽」しか目が行きませんでしたが、
それ以外の文まではっきりさせる試みは素晴らしいと思います。
写真が少しは役立てば幸いです。
こうやって一つ一つ解明していく作業、楽しそうです。
私も退職したら・・・あと8年ほどですが、やってみたいです。
そうそう、鐘が吊るされていなかった写真は貴重ですね。
鐘の奥にある大仏の顔がいまいちよくわかりません。それが残念。
投稿: いっぱい道草 | 2013年9月22日 (日) 22:59