ウズベキスタン勉強2/日本人捕虜が残したもの
今日は2月12日。
前投稿のつづき。
太平洋戦争後、ソ連に抑留されて強制移送された日本人捕虜が、
ウズベキスタンで何をしたか。
前投稿では、ナボイ劇場の建設に参加したことを書きました。
次の本にもナボイ劇場建設にかかわる日本人のことが書かれてました。
(中山恭子著/KTC中央出版)
中山恭子さんは、1999年にウズベキスタン共和国特命全権大使として赴任。
3年間勤めました。その時の体験をもとに書かれた本です。
引用します。
首都タシケントではナヴォイ劇場を日本人が建設したことはよく知られており、
その当時の日本人を語る逸話も伝えられています。
金融機関に勤めていた方の話です。
「子どもの頃、日本人が入っていたラーゲリ(収容所)の近くに住んでいた。
日本人は毎朝、挨拶をし隊列を組んで仕事場に出かけていった。
夕方また隊列を組んで戻ってきた。
ある時お腹が空いていることだろうと思って、
友達とラーゲリの垣根の壊れたところからパンと果物を差し入れた。
そうしたら2,3日後に、手作りの木のおもちゃが置いてあった。
親から『日本人は規律正しい人々だ。
勤勉で物を作ることがとても上手な人達だ。
そしてお返しを忘れない律儀な人々だ。
あなたも日本人を見習って大きくなりなさい』と言われて育てられた」(中略)
戦後この地で強制労働に従事した日本人が
その日々の生活を通して残した貴重なものが、
今の日本に対する信頼を形成する上でどれほど貢献していることか。
苦しい抑留生活の中でも規律正しく、
優しさを失わなかった日本人に心から敬意を表し、
心から感謝したいと思います。(212p)
ナボイ劇場建設のみならず、日本人捕虜の働く姿は、
ウズベキスタンの人たちの心に影響を与えたようです。
「体験取材!世界の国ぐに36 ウズベキスタン」
(文・写真 吉田忠正/監修 中島章子/ポプラ社)より引用。
ウズベキスタンに送られた日本人は約2万5000人にのぼります。
石炭の採掘、水力発電や道路、水路の建設などにかりだされました。
強制された仕事とはいえ、一生けんめいはたらくすがたに、
現地の人びとは感銘を受けました。
きびしい作業のさなか、現地で亡くなられた人もたくさんいます。
その人たちの墓を、現地の人たちが、
そうじや草むしりをして守ってきました。
さらに、2002年には日本人の寄付とウズベキスタン政府の手により、
13か所ある日本人墓地の整備が完成しました。(31p)
今度勤務校に来られる留学生も、きっとこんな歴史を勉強していることだろう。
今の日本人がどう見えるだろう。
まだまだ当時の日本人らしさは失われていないと思うが。
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