新美南吉記念館8/養家へ/志もさんの写真
この土日は成績の仕事を進めたいところです。
しかし、新美南吉記念館に行った時のこともここに書きたい。
並行してすすめよう。
11月28日。
記念館を後にして、南吉の生家に行き、
次に養家に行きました。
南吉は、小学校2年生の夏に、実母りゑの実家に養子となります。
南吉は祖母(実母りゑの継母)の志もと2人暮らしとなります。
苗字も「渡辺」から「新美」になります。
南吉にとってはさびしい日々だったようで、
12月に生家にもどり、再び養家で暮らすことはなかったそうです。
室内には、南吉の作品「ひらがな幻想」の版画がふすまに貼られています。
飯野農夫也(のぶや)さんという方の作品だそうです。
この部屋で、浅野温子さんが南吉の作品「狐」を朗読し、
それがNHKで放映されたそうです。
(2007年11月2日東海地方/2008年2月24日全国放送)
その時には、私の興味関心が新美南吉に向いていなくて、見逃しました。残念。
案内人の方が、最近見つかった志もさんの写真を見させてくれました。
記念館のHPにも紹介してありました。
昭和27年頃の撮影。
志もさんは、昭和36年に亡くなっています。
南吉は作品の中で、
「私のひ弱な子供心をあたゝめてくれる柔い温ものをもっていなかった」と書いているそうです。
作家の身のまわりにいる人はつらいですね。
こうやって作品の中に、作家の主観が残ってしまいます。
森鴎外も、上司のことを作品の中でひどく書いています。
たまったものではないです。
「新美南吉記念館だより」(113号)より引用。
4歳で生母りゑを亡くした渡辺正八(南吉)が、
血のつながりのない祖母(りゑの継母)である志もの養子になったのは
大正10年7月、8歳のときのことでした。
新美家での生活は半年間だけでしたが、
このとき味わった孤独は、南吉にとって生涯ぬぐいがたい影を残したようです。
そのため、私達もつい志もに対しては温かみのないイメージを抱きがちです。
しかし、実際の志もは、すでに『南吉おぼえ書』(神谷幸之著)で紹介されているように、
働き者で人当たりの良い、それでいて芯は利口な人だったようです。
今回、あらためて岩滑新田で彼女のことを尋ねても、
「利口でなんご(誰にでも親切で人当たりが良い)な人」
「近所の嫁姑の争いにも仲裁に入る人」
「子どもが(新美家の)山桃の実を採りに行くと木に登って採ってくれた」といった話が聞かれました。
また渡辺家に戻した南吉に対しても、学費を援助したり、
亡くなる前には看病に通ったりするなど、養母としての気づかいを見せています。
そういう人だったのでしょう。
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