「大関和物語」② 短命だった鹿鳴館/喫茶店を始めた鄭永慶
今日は令和8年4月23日。
前記事の続きで、本「明治のナイチンゲール
大関和物語」(田中ひかる著/中央公論新社)より
引用していきます。
和に英語を学ぶことを勧めた鄭永慶のその後である。
和が鹿鳴館で働くために鄭家を辞して間もなく、妻寿子が男児を出産
した。しかし二年後、寿子は二十二歳の若さで病没。寿子の実家のた
っての願いで、妹が後妻に入るが、男児を二人出産したあと、寿子と
同じ二十二歳で亡くなってしまう。この間に、鄭家の広大な屋敷が火
災で焼失した。
失意の永慶を支えたのが、庶民や学生が本物の西洋文化を味わいなが
ら交流を図るサロンを作るという夢であった。永慶の言う「本物の西
洋文化」とは、コーヒーのことである。
永慶は大蔵省を辞めると、借金をして屋敷跡地に壮麗な洋館を建てて、
『可否茶館(かひーちゃかん)』と名付けて営業を始めた。これが日
本で最初の喫茶店と言われている。二階の喫茶室では、コーヒーのほ
かにパンやカステラ、パン・ペルデュなどが供された。一階には玉突
台、クリケット、トランプなどで遊べる遊戯室があり、誰もがいつで
も手紙が書けるように硯と便箋、封筒なども常備された。このほか、
更衣室、シャワー室、内外の新聞や雑誌、和漢洋書、書画を集めた図
書室もあり、中庭をはさんだ茶亭では、囲碁や将棋、詩吟や歌会も行
うことができた。
『可否茶館』について永慶は、弟にこう語っている。
「いまにごらんよ、あんなろくでもない鹿鳴館が栄えるもんか。いか
に大きな社交殿堂といっても、国民のために何の役にたつというんだ。
なんでもかんでも、うわべばかりの毛唐の真似をしても、ほんとうの
西洋文化のよさを識ってはいないのだ。(中略)あの鹿鳴館でランチ
騒ぎをしている大半の連中は、テンデ、西欧の文明文化なんてものは
わかっていないじゃないか。僕が建てた『可否茶館』のほうが、どの
くらい世の中の人の憩いの場所になるかしれんよ」
(『珈琲 ものがたり』)
永慶の予見どおり、鹿鳴館は間もなく終焉を迎える。欧化政策を行い
ながら、不平等条約の改正交渉を進めていた井上馨であったが、領事
裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復を認める代わりに、外国人の内
地雑居と外国人判事任用を認めるという改正案が明らかになると、
政府内外から批判が相次いだ。
馨は本格的な改正までの一時的な案と考えていたのだが、国粋主義が
台頭しつつあるなか、押し通すことはできなかった。明治二十(一八
八七)年、馨は外務大臣を辞任。役目を終えた鹿鳴館は、宮内省に払
い下げられ、第二次世界大戦中の昭和一五(一九四〇)年に解体され
る。
一方、永慶の『可否茶館』も短命に終わった。玉突きもできれば、新
聞、雑誌、和漢洋書が好きなだけ読めるとあって、特に帝国大学生が
大勢集まり、サロンの様相を呈したものの、コーヒーを飲まずに遊ん
で帰るだけの学生も少なからずおり、経営が行きづまった。
永慶は起死回生の策として相場に手を出すも失敗。父永寧名義の土地
を担保に借金を重ね、結局返せなくなってしまった。自殺を考えたが
思いとどまり、「西村鶴吉」という偽名を使い、アメリカへ密航する。
シアトルで皿洗いなどをしながら生活していたが、明治二八(一八九
五)年に三十七歳で客死した。『可否茶館』の開業から七年後、密航
から三年後のことであった。(65〜67p)
長く引用しました。興味深いことがいろいろありました。
まずは鹿鳴館。
明治16年スタートの鹿鳴館。
目的は不平等条約を改正すること。
しかし明治20年には改正に失敗。
明治23年には華族会館となって
当初の目的は失われます。
確かに思っていたより短命であったと思います。
鄭永慶(ていえいけい)
わかりやすい動画で勉強をしました。
YouTube: 【風薫る】島田健次郎(佐野晶哉)のモデルは鄭永慶?木下尚江?シマケンの正体とは #風薫る #朝ドラ #ドラマ考察
この動画は、ドラマ「風、薫る」に登場している島田健次郎の
モデルは、2人の人物、鄭永慶と木下尚江だと考える動画です。
動画の前半が鄭永慶の説明でした。
スクリーンショットを利用します。
鄭永慶の写真です。
大関和に英語の勉強を勧めた人物のようです。
そのおかげで、和は大山捨松と縁ができ、看護婦への道に進みます。
4月13日は「喫茶店の日」となっています。
しかし夢破れ、4年で「可否茶館」は閉店します。
不幸が続いた鄭永慶は、自殺を考えます。
しかし旧知の人物の説得を受け、自殺を思いとどまり、
アメリカに出国します。
シアトルはスターバックス発祥の地。
このような人物でした。
退職してから、喫茶店を利用する機会が増えました。
喫茶店を始めた人物として鄭永慶は覚えておきたいなと思いました。












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