初めて見に行った雨山ダム/雨山合戦跡地
今日は令和8年3月24日。
奥さんの実家に行くのに、千万町経由で行くようになって、
いつかは行きたいねと奥さんと言っていたのが、
雨山ダムです。
3月20日にミツマタ群生地を見ることができなかったので、
その代わりに、かねがね行きたいと言っていた雨山ダムに
行くことにしました。
今回走ったのは、地図の緑のコース。
ふだんは黄色のコース。
雨山ダムは、そこを出発点にして本宮山に登れることで、
話題になったことがあります。
いつかはやってみたいと思っていました。
その第一段階で、雨山ダムを見るのが今回ですね。
一度ダムを右手に見て、通り過ぎて上流側から
撮影したものです。
御多分に洩れず、このダム湖も水がかなり減っているようです。
こんな広場があるダムなんだなあ。
でも自動車だと行き止まりの場所にある広場なので、
そんなにたくさんの人は来ないだろうな。
旧額田町の水道供給のためのダムで、平成7年に出来たようです。
そりゃあ、宇連ダムや大島ダムに比較したら、
小規模だと一目でわかるダムです。
驚いたのは矢作川水系だと言うこと。
ここは矢作川水系なんだ。
矢作川の流域を地図でみたいと思って探しました。
ここにあった図を転載。
雨山ダムは、旧音羽町の萩のすぐ近く。
なのに、雨山ダムがある場所は、
降った雨は矢作川に行くんだと思いました。
もう一つ気がついたのは、流域の頂点に大川入山があること。
矢作川の源流は大川入山なんだ。
親しみが湧いてきました。
ダムの上から撮影。
ダムこの名前は三和湖(みつわこ)。
ダムから下流。田畑が広がります。
ダムのすぐ下流にも小さな公園。
ちょっと怖いかも。
興味を持ったのは雨山合戦。
織田信長の台頭によって、今川義元についていた者たちが、
織田型につくようになってきた。
それを防ぐために、寝返ったものたちを打ち取れという
今川義元の命令が出た。
織田方についた雨山の領主阿知波修理定直と五郎右衛門兄弟の
立て籠もる雨山砦を、義元の命に従った野田城主菅沼新八郎定村が
攻めた戦い。
雨山側には、作手の亀山城から本宮山を越えて奥平氏が援軍。
野田軍を打ち破ったが、その後攻めてきた伊奈城の本多軍に
敗れ敗退する。
伊奈城とは地元旧小坂井町の遺跡。
戦国時代の身近な現場です。
ここから一部引用。定村が打ち取られるシーン。
敵味方必死の攻防が続き、やがて右の木戸が破られそうになった。
その時、五郎右衛門の目に谷の上で指揮する定村の姿が見えた。
砦を救うには敵将を討取るほかなしとみた五郎右衛門は谷底に下
り立ち、上げ矢で定村を射た。矢は定村の左の咽から耳の根へ射
通したという。さすがの勇将定村も落馬して息絶えた。享年三十
六歳であった。定村討死後も野田勢の攻撃は続き、定村の弟定貴
(宇利城主・二十九歳)、同じく定満(二十五歳)、その他多くの家
来が討死してしまった。
今川義元と織田信長の戦いといえば桶狭間の戦い。
その前哨戦でこのような戦いがあったのですね。
山に遮られているが、確かに雨山は作手、野田、そして伊奈などから
直線距離は遠くない。山をもろともしないだろうから、
この雨山に集まってくるんだろうなあ。
雨山ダムと雨山合戦。
勉強になりました。













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