厄介なカーブができたのは、引き込み線があったからと判明
今日は令和6年7月30日。
東海道本線の西小坂井駅から御津駅に向かう時に、
2番目の踏切が、地図中に青丸で示したところ。
この踏切の東側に、厄介な交差点があります。
三叉路ですが、東からやってきて右折すると、
右回りでカーブします。
このカーブが厄介です。
この地図のように、三叉路に北からやってきて、
右折しようとすると、踏切方面から来る車が見えにくく、
かといって、東から右折して曲がってくる車があり、
さらにさらに、踏切が鳴り出したりすると、
踏切待ちの車が並び出して、にっちもさっちもいかなくなります。
地元の人が嫌う交差点です。
カーブの曲がり方がいけません。
なぜこんなカーブが生まれたのか。
半月ほど前に、耳寄りな情報が入りました。
あのカーブは、昔、東海道本線から分岐した引き込み線があったから
その名残りで、あんなカーブになったようだという話。
誰に聞いたのか、半月前のことなのにもう忘れています。
でも、引き込み線はありうるなと思い、
聞いた時にも、「戦時中には住友の大きな軍需工場があったらしいし、
その跡地には、富士紡績の大きな工場ができたから、
引き込み線があった可能性はあるね」と自分は言いました。
私の亡き両親は、2人とも富士紡績に勤めていました。
引き込み線の情報はないかなと思っていたら、
7月20日に、情報はやってきました。
その日は、豊川市防災リーダー研修会がありました。
会場は市役所横の豊川市防災センター。
ここに素晴らしい機器がありました。
これです。
このモニターです。
このモニターには、左右2つの地図が表示されます。
右側に新しい地図。
(と、言っても平成10〜22年だから、まあまあ古い)
そして左側には、もっと古い地図が表示されます。
すごいのは、左右の地図は同じ場所なのです。
右の地図を手で触れて移動させると、左の地図も同じように移動します。
つまり、現在の場所が、かつてはどうだったのか、
一目でわかってしまうのです。
これは防災には重要です。
かつて沼だったり、川だったりした場所は、
土地が軟弱の可能性があります。
山を切り崩した土を盛って平らにした場所なら、
崖崩れの可能性が出てきます。
なので、防災センターに設置されている機器なのです。
防災センターは、基本自由に出入りできるので、
誰でも、この危機に触れることができます。
私の関心事は引き込み線です。
引き込み線が載っている古い地図はないかと調べました。
明治、大正、昭和初期、昭和中期の地図がありました。
その昭和中期に、引き込み線は載っていました!
これです。
青丸が踏切です。
左の地図に、東海道本線から分岐している引き込み線があります。
富士紡績工場まで行っています。
そして線路沿いに、道があります。
昭和初期の地図には、引き込み線とそれに沿った道は
載っていませんでした。
あの厄介なカーブは、ここで誕生したのです。
かつて富士紡績に勤めていた年輩の方に聞いたところ、
その方が入社した昭和41年には、まだ引き込み線はあったそうです。
しかし、トラック輸送が主力になっていて、
貨車による輸送はあまり行われていなかったそうです。
昭和41年。私は昭和36年生まれなので、
生まれた時には引き込み線はあったことになります。
でも全く記憶にはありません。
おそらく、昭和41年からあまり経たないうちに、
引き込み線は撤去されたと考えます。
そうでなかったら、私の記憶に残るはずです。
現在の踏切、三叉路の交差点の写真を載せます。
7月22日の撮影です。
引き込み線の名残りはないかと探しましたが、
わかりませんでした。
でも、豊川市防災センターに行ったおかげで、
謎が解明できてよかったです。
実は明治、大正、昭和初期の地図も興味深いものでした。
次の記事で書いてみます。
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