「この国の不寛容の果てに」⑨ かつては社会的フィルターが存在していた
今日は令和3年3月28日。
前記事に引き続き、
「この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代」
(雨宮処凜編著/大月書店)より。
向谷地生良さんと雨宮処凛さんとの対談です。
う~ん、どう引用したら、伝えたいことが伝わるのか。
とにかく引用してみます。
向谷地:人間はそもそも、社会や世界の中に飛び交う言葉や雰囲気、
文化を取り込みながら自分をつくっている。(中略)
いままでの医療は、統合失調症や精神疾患を抱えた人たちの幻聴と
か自殺念慮、マイナス思考に対して、薬を飲ませてその人を変える
ことで解消しようとしてきたわけですが、それが間違っていたんじ
ゃないか。その人たちは、たまたま人より敏感なアンテナを持って
いたために、周囲の社会の空気や現実を人よりも素直に取り込んで、
その結果として生きづらさや病気というものが症状として立ち上が
っているのではないか。そういう考え方ができると思い至ったんで
す。
(89%)
私も投薬治療を受けている最中。
私がうつ病を発病した理由は何だったのか。
マイナス思考で「辞めたい」と思ったのはなぜなのか。
その理由を社会の空気に求めてもいいと思いました。
そこを改善しないと、私が再び発病するかもしれないし、
自分のように発病する人も出てくるかもしれません。
向谷地:SNSやネットがない時代は、どんなことであれ、語った
ことは人のつながりのフィルターを通してゆっくりと世に出ていっ
た。地上の泥水がゆっくり土に染み込んで地層の中で浄化されるよ
うに、ある種の社会的なフィルターが存在していたと思うんです。
現在はそこに穴が空いてしまって、発した言葉がそのままストレー
トに、無批判に世の中に出て行く。
(91%)
SNSやネットがない時代には、
社会的なフィルターが存在していたという説になるほどと思いました。
この視点は持っておきたいなと思いました。
この本からの引用はここまでにしましょう。
初めての電子書籍でした。
たくさん勉強ができた本でした。
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