「遊び心」が少なくなっていませんか、学校。
今日は4月3日。
昨日の記事のタイトルは
「9年ぶりの転勤 18年ぶりの中学校勤務」でした。
「9年」「18年」と来たら次は「27年」だけど、
27年ぶりのことは思い出せません。
そこで・・・・・昨日の朝、初出勤の時、
最初なので来賓用の下駄箱を使おうとして、
「27番」の下駄箱を選びました。
「9年ぶりの転勤 18年ぶりの中学校勤務 27番の下駄箱を使用?」
できた!
3月4日のキミヤーズ塾で配付された
赤木和重先生の「全障研兵庫支部」のエッセイは
心に残る文章でした。
一部引用します。
(前略)
1つ気になることがあります。
それは、実践者側に「遊び心」が少なくなっていること。
特に学校現場で強く感じます。
「遊び心」を、あえて定義すると、
「『正しさ』と距離をおき、逸脱や失敗、悪ふざけを楽しもうとする心」
といってよいでしょう。例えば、給食のとき、
子どもと牛乳一気飲み対決をする先生、
学級目標に「適当」を掲げる先生、
桃太郎ならぬ『柿太郎』というお題を出して、
パロディ作文を子どもに書かせる先生。
その質は様々ですが、一見すると、
ちゃんと教えているのか疑わしくなる行為です。
どう考えても一気飲み対決をした結果、
子どもに何かの能力がつくとはとても思えません。
なのですが、こういう「遊び心」のある先生がいることは大事です
(全員だと大変なことになりますが)。
生真面目な先生だけが集まると、教育指導はどんどん必要以上に精緻化し、
子どもと教師を追いつめることになりかねません。
「正しさ」とは少し距離をおいた先生がいることで、
学校自体が、その精緻化スパイラルから解放されます。
それに、教育効果もあるかもしれません(ないかもしれません)。
牛乳対決に勝利した先生は子どもからリスペクトされるかもしれませんし、
「適当」で救われる子どももいるかもしれません。
「遊び心」あふれる先生がいなくなったのは、なぜでしょう?
飲み会では、はしゃげる先生が教室で「遊び心」を出せないのはなぜだろう?
…モヤモヤしています。 赤木和重
なるほどの文章です。
教師集団が陥りやすい展開だと思います。
そして「遊び心」をもった先生は、
外されて行ってしまいます。
どの先生も、プライベートでは楽しい人なのに、
教師集団になると精緻化してしまのです。
そう思うと・・・新しい勤務校の
特別支援学級担任グループ(4人+1人)は、
なかなかいいメンバーですよ。
今回もメンバーに恵まれています。
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