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2011年12月17日 (土)

知多半島中之院の軍人像/上海上陸作戦

  

今日は12月17日。

本「愛知県 謎解き散歩」(新人物文庫)を読んでいて、次の話が気にとまりました。

   

EPSON051軍人像
本に載っていた写真です。

愛知県知多郡南知多町の「中之院」境内にあるセメントでできた90余体の軍人像です。

元々は、名古屋市千種区月ケ丘にあって、

軍人墓地と呼ばれていたそうです。

区画整理のために撤去されることになり、

この寺に移されてきたそうです。

この軍人たちはどういう人たちか?

本から引用します。

   

軍人像のほとんどは上海上陸作戦で戦死した名古屋第三師団歩兵第六連隊の兵士たちで、

ある人がここ(月ケ丘)に地所を買い、遺族たちに呼びかけて、

おのおの戦没者の一時金によって、

写真をもとに像を造らせて建てたものである。(108p)

    

「上海上陸作戦」を初めて聞きました。 

どんな戦いだったのか。

  

日中戦争初期の1937年(昭和12年)8月に日本は上海への上陸作戦を開始しました。

上陸した地点の地名からウースン(呉淞)上陸作戦と呼ばれます。

最初に上陸しようとしたのが名古屋第三師団。

8月23日のことでした。

  

緊急出動で名古屋城内の兵営から夜間およそ13キロを徒歩行軍し、

名古屋港から艀(はしけ)で知多半島野間沖に待機していた巡洋艦や駆逐艦に乗り込み、

26時間で揚子江河口付近に到着しての敵前上陸だった。

だが第六連隊は、無残にも上陸後半月足らずでほとんど全滅となった。(109p)

   

10日後には四国の連隊が上陸。

   

その第六連隊上陸の10日後に上海敵前上陸をした四国丸亀第一二連隊に属していた

三好捷三氏の著書『上海敵前上陸』によれば、

盛んに銃撃してくる森に、もしかすると敵中に取り残されてしまった

先発の第三師団の兵達が残っているのではないかと確認に行ったら、

案の定、第三師団の兵隊が10名ほど褌(ふんどし)一つの姿で

敵も味方も見境なく破れかぶれで発砲していて、

名乗りをあげた三好氏らに、

「お前達もなあ、いまから10日もするとおれたちと同じようになるよ。

中隊が10名になるよ。

これはなあ、戦争じゃないよ、虐殺だよ」と言ったという。(110p)

    

悲惨な戦いだったと文章から想像できます。

ノルマンジー上陸作戦のようなことを日本がやっていたわけです。

まだ知らないことがたくさんあるなあ。

  

写真をもとに作ったという軍人像を、機会があったら見に行きたいと思います。

   

※参考「呉淞(ウースン)上陸作戦」htm

※参考「軍人像の墓 愛知/中之院」html

※参考「中之院(たぬき寺)軍人像」htm

 

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