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2010年7月10日 (土)

「蛤御門の変」について復習・認識

   

(前投稿のつづき)

「蛤御門の変」の説明では、次のサイトの説明がわかりやすかったです。

ここで一度「蛤御門の変」を復習・認識しておきたい。

※参考:「京都 行政書士 澁谷行政書士事務所」

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shi-bu/kyotorekishi/hamaguri.html

    

京都御苑にはいくつ門があるか。答えは九つである。

そのひとつの蛤御門は烏丸通りに面した御苑の西側にあり、

俗に言われる「蛤御門の変」または「禁門の変」として名を馳せている。

元治元年(一八六四)に生じた歴史的大事件を指しているのだ。

前年の文久三年(一八六三)の政変において、

京都の政界を追われた長州藩尊攘派は勢力の挽回を図ろうと二千人の藩兵を率いて上京、

そこで御所を護衛する会津・薩摩両藩との激突を迎えた。

その激戦地となったのが、蛤御門の周辺だった。

戦いはわずか一日にして終わり、長州藩はまたしても敗退を余儀なくされた。

その際、長州藩の宿泊所だった嵯峨の天龍寺は、

会津・薩摩両藩の追撃を受け、焼失を免れることができなかった。(下につづく)

     

    

25pic

     

     

※NHKの大河ドラマ「龍馬伝」サイトよりhttp://www9.nhk.or.jp/ryomaden/kikou/25.html

 左:蛤御門  右:天龍寺

      

        

(つづき)蛤御門は今でも戦いの弾痕の跡を残している。

門が焼けることはなかったが、蛤御門の変がもたらした戦火は京都の町を襲い、

三日間に渡って延々と燃え続けた。

この大火は鉄砲や大砲による撃ち合いで発生した火事ゆえに

「鉄砲焼け」「どんど焼け」とも呼ばれている。

また、この蛤御門の変をきっかけに、それまで敵同士だった薩摩と長州の連合藩が誕生し、

ひいては幕府の威信低下を招くこととなった。
 

ところで「焼けて口開く蛤御門」との言葉を聞いたことがないだろうか。

実はこの蛤御門、正しくは新在家御門と言い、

元治元年の蛤御門の変では焼けることはなかったが、

天明八年(一七八八)のいわゆる天明の大火においては初めて門が開けられたのだった。

そこで焼けると口をあける蛤に例えて「焼けて口開く蛤御門」と言われるようになった。

以来、通称蛤御門と呼ばれている。

    

    Dsc_0080490x325
     

     

    

     

※焼き蛤:「お空の下で遊ぶしねぇ?」よりhttp://osora.net/archives/747

とても美味しそうな写真です。

   

     

「ここでも道草」では、先月「蛤御門の変」について書きました。

http://mitikusa.typepad.jp/blog/2010/06/post-277d.html

9月の終わりに修学旅行に行くために、

再び関心が高まってきています。   

   

        

      

   

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