「大関和物語」④ 日本看護史の貴重な貴重な写真を見つけた
今日は令和8年4月24日。
前記事の続きで、本「明治のナイチンゲール
大関和物語」(田中ひかる著/中央公論新社)より
引用していきます。
トレインド・ナースの誕生
明治二一(一八八八)年一〇月二六日、桜井看護学校の六人は、第
一医院の看護学生二二人とともに一年間の実習課程を終え、修了試
験にも合格することができた。同年二月には慈恵看護婦教育所が、
六月には京都看病婦学校が最初の卒業生を出していることから、こ
の年は日本におけるトレインド・ナース誕生の年といえる。
(中略)
修了式を終え、アグネス、マリア、楫子、和たち六人の学生が寄宿
舎へ帰ると、庭で写真屋が待ち構えていた。マリアと楫子の計らい
である。二人は、アグネスと学生たちに花束を贈ると、写真に収ま
るようにうながした。
まずアグネスを中心に和と雅が座る。和の隣には梅が寄り添う。雅
の隣に民が座り、後ろに子尾が立つ。民と子尾はたびたび雅から厳
しいことを言われ、その場では反感を覚えつつも雅を尊敬してやま
なかった。おっとりとした里以は、写真屋にうながされるままにア
グネスの後ろに立つ。このとき撮影された桜井看護学校卒業生たち
の写真は、日本の看護史の貴重な一枚として今に伝わる。
(114〜115p)
この本のここを読んだ時から、この写真をネットで探したいと
思っていました。
果たしてネット上にあるかどうか。
調べました。
簡単に見つけることができました。
エキスパートナース 朝ドラ『風、薫る』のモデル、大関和と鈴木雅―看護の道を切り開いた2人の歩み
このサイトにありました。
写真の下には次の説明がありました。
桜井女学校附属看護婦養成所第1期生の卒業記念写真。
前列右から2人目が大関和、4人目が鈴木雅(医療法人知命堂病院提供)
本の文章によると、前列右から広瀬梅、大関和(ちか)、アグネス、
鈴木雅(まさ)、小池民(たみ)。後列右が池田子尾(ねお)、
桜井里以(りい)。
1888年(明治21年)の写真。
138年前の写真。貴重な写真を見つけることができました。
二人の看護婦は緊張のあまり、普段より饒舌である。馬車に揺られな
がら、過去の防疫の際に起きた出来事や事件などについて語り合って
いる。こうした話題のとき筆頭に挙げられるのが、十数年前、千葉の
鴨川で起きた事件である。全国的にコレラが流行し、防疫対策のみな
らず、米価高騰に対する不満も重なって各地で暴動が起こるなか、防
疫に奔走した四〇代の医師が、数十人の住民から竹槍で滅多刺しにさ
れ、川に遺棄されたのだ。避病院への隔離は患者の「生き胆を抜くた
め」という噂を信じ、さらに、医師が井戸を消毒している姿を見て
「毒を混入している」と思い込んだ住民たちは、コレラの流行を終息
させるためには、彼を始末するほかないと考え、集団で襲ったのであ
る。(176〜177p)
この事件について知りたくなりました。
調べてみると、この住民から殺された医者は、
沼野玄昌のようです。
このサイトで事件のあらましを書いた文章を引用します。
明治10年(1877)はコレラが流行した年で、県内でも300人を大
幅に超える死亡者があった。9月には鴨川町でコレラ患者がでたた
め、小湊の医師沼野玄昌が死者の火葬や井戸の消毒などの防疫活動
を行っている。11月にも鴨川でコレラ患者が発生し隔離のために
出向いたところ、玄昌が井戸に毒を入れ患者の生き胆を抜くという
噂が流れ、それを妄信した住民が押し寄せ、玄昌を襲い殺害すると
いう事件がおこった。
玄昌は佐倉順天堂で佐藤舜海から4年にわたって西洋医学を学び、
慶応3年(1867)には幕府医学所で種痘法の技術を身に付けて、
伝染病対策に取り組んでいた人物であった。事件の背景には、
コレラという新しい伝染病への恐怖と不安に加え、明治維新によ
る価値観の転換を迫られていた人々の動揺があったとされている。
玄昌がもつ近代医学の発展普及への熱意に、人々の理解はまだ追
いついていけなかったのである。
この殉職した沼野玄昌について、作家の吉村昭さんが
小説「コロリ」で書いていました。
さすが、吉村昭さんといった感じ。
歴史に埋もれていってしまいそうな出来事を
文章で残す仕事をされているなあと思いました。


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