« 2026年4月23日 | メイン | 2026年4月25日 »

2026年4月24日

2026年4月24日 (金)

「大関和物語」③ 大山捨松と新島八重/俥夫の階層「朦朧」 

  

今日は令和8年4月24日。

  

前記事の続きで、本「明治のナイチンゲール

大関和物語」(田中ひかる著/中央公論新社)より

引用していきます。

  

この時期に看護学校が相次いで設立された背景には、江戸時代と変

わらぬコレラ、天然痘、赤痢といった伝染病の流行があった。桜井

看護学校開校の前年には、全国的にコレラが大流行し、東京府は

「伝染病予防法」に基づき、本所、駒込、大久保、広尾に、コレラ

患者を隔離する「避病院」を設置している。

このうち、いち早く常設となる駒込病院には、同年中に二四六〇人

が入院し、うち一八五九人が死亡した。また、男女の「看病人」も

感染し、八月、九月の二カ月の間に、四病院合わせて三〇人以上が

命を落としている。府民の中には、東京なまりも手伝って、避病院

を「死病院」と思い込んでいる者さえいた。伝染病を抑え、看病人

までもが亡くなるという悲劇を繰り返さないためにも、専門的な訓

練を受けた「看護婦」が必要とされたのである。

和が看護学校に入るにあたり、哲は予想どおり「せっかく鹿鳴館の

仕事に就けたというのに、看護婦に身をやつすとは」と言って反対

した。「男女七歳にして席を同じうせず」を地で生きてきた哲にと

って、見知らぬ男に付き添って看護をするなど、下賤極まりない行

為であった。しかし和が、会津藩出身の大山捨松と新島八重が看護

学校の設立に関わった話を聞かせると、もう何も言わなかった。

戊辰戦争後、苦難の道のりを歩まねばならなかった会津の女たちに、

元黒羽藩家老の妻として、思うところがあったのだろう。

(69〜70p)

  

ドラマ「風、薫る」でも登場した「避病院」

「ひ病院ってなんだ?」と最初思っていました。

後で「ひ」は「避」だとわかりました。

確かにドラマでも「死病院」と言われていました。

新島八重が登場したことにも驚きでした。

そうか、新島八重は、大河ドラマ「八重の桜」で知った人。

「八重の桜」では、看護婦誕生に関わったことは、

あまり扱っていなかったように思えます。

それをいうなら大山捨松の功績もよくわかっていませんでした。

今回の連続テレビ小説は、2人の女性の勉強のきっかけになります。

  

ある晩、和と雅の二人で食堂の床に座り込み、ランプの火屋を磨いて

いると、雅がおもむろに「『博愛社』が『日本赤十字社』と名前を改

めたことを知っていますか」と問う。

「はい。新聞で読みました」

一〇年前、新政府の方針に反発した九州の不平士族たちが起こした

西南の役では、反乱軍側、政府軍側ともに多数の傷病者が出た。そ

の状況を憂えた元老院議官の佐野常民(つねたみ)が中心となって

設立したのが、博愛社である。

常民は、幕末に佐賀藩を代表してパリ万博へ派遣された際、戦傷病

者の保護を目的に創設された赤十字の展示を見学し、創設者である

アンリ・デュナンの「傷ついた兵士はもはや兵士ではない、人間で

ある。人間同士として尊い生命を救わなければならない」という言

葉に感銘を受け、日本にも赤十字のような組織が必要だと考えたのだ。

博愛社は赤十字の精神に基づき、西南の役で敵味方の区別なく兵士

たちの救護活動に当たった。一年前、戦時における傷病者および捕

虜の待遇改善について定めたジュネーブ条約に日本が加盟したため、

社名を日本赤十字社(日赤)と改称すると同時に、上流階級の女性

たちから成る「篤志看護婦人会」を発足。本社と同じ麹町にあった

「博愛病院」も「日本赤十字社病院」と改められ、渋谷では新病院

の建設が着工した。間もなく、看護婦の養成も始まる。

(85〜86p)

  

西南戦争と日本の赤十字社が関連があると記憶がありましたが、

この文章で復習ができました。

  

  

気まずい夕食を終え、部屋に戻った和は、外出の準備をして寄宿舎を

出た。向かう先は、植村正久がいる麹町の一番町教会である。ちょう

ど通りかかった空の俥に乗る。夜に多い「朦朧(もうろう)」のよう

だ。人力車夫にもいくつか階層があり、最下層の「朦朧」と呼ばれる

車夫たちは、貸し俥屋から安い俥を借りて営業する。安い俥は古く傷

んでいるため、それが目立たない夜間に走ることが多い。和は、俥の

良し悪しなどどうでもよかった。幸いだったのは、車夫が一番町教会

の場所を知っていたことだ。俥は上り下りの多い道を颯爽(さっそう)

と走り抜け、一五分ほどで教会まで運んでくれた。教会の扉の鍵は、

いつも開いている。和は迷わず中へ入った。すると、いつもと同じ牧

師服に身を包み、復活祭の準備をしていた正久が、こちらをふり返る。

「大関さん、あなたはいつも唐突にやってきますね」(109p)

  

人力車の階層「朦朧」が気になりました。

朦朧の意味は「ぼんやりとかすんで、はっきり見えないさま」

(コトバンクより)でした。う〜ん。

他にどんな階層があったのかな。

くるま屋日本橋 俥夫の社会と暮らし

ここに階層がありました。

①おかかえ

②やど

③ばん

④もうろう

4階層のようです。

「ばん」の説明で「もうろう」と呼ばれた理由が分かったような。

引用します。

  

●ばん

人力車はみだりに路上で駐車したり、空車を引いてうろうろしてはい

けないことになっており、公設または私設駐車場に梶棒をおろして客

待ちをすることになっていました。番は人力車駐車場を拠点として組

織されている株(権利)俥夫の集団で、この番に入っていない俥夫を

もうろう俥夫と言って区別していました。

  

株(権利)を持っていないあいまいさを表現している「朦朧」のように

思えました。

「大関和物語」② 短命だった鹿鳴館/喫茶店を始めた鄭永慶

   

今日は令和8年4月23日。

  

前記事の続きで、本「明治のナイチンゲール

大関和物語」(田中ひかる著/中央公論新社)より

引用していきます。

  

和に英語を学ぶことを勧めた鄭永慶のその後である。

和が鹿鳴館で働くために鄭家を辞して間もなく、妻寿子が男児を出産

した。しかし二年後、寿子は二十二歳の若さで病没。寿子の実家のた

っての願いで、妹が後妻に入るが、男児を二人出産したあと、寿子と

同じ二十二歳で亡くなってしまう。この間に、鄭家の広大な屋敷が火

災で焼失した。

失意の永慶を支えたのが、庶民や学生が本物の西洋文化を味わいなが

ら交流を図るサロンを作るという夢であった。永慶の言う「本物の西

洋文化」とは、コーヒーのことである。

永慶は大蔵省を辞めると、借金をして屋敷跡地に壮麗な洋館を建てて、

『可否茶館(かひーちゃかん)』と名付けて営業を始めた。これが日

本で最初の喫茶店と言われている。二階の喫茶室では、コーヒーのほ

かにパンやカステラ、パン・ペルデュなどが供された。一階には玉突

台、クリケット、トランプなどで遊べる遊戯室があり、誰もがいつで

も手紙が書けるように硯と便箋、封筒なども常備された。このほか、

更衣室、シャワー室、内外の新聞や雑誌、和漢洋書、書画を集めた図

書室もあり、中庭をはさんだ茶亭では、囲碁や将棋、詩吟や歌会も行

うことができた。

『可否茶館』について永慶は、弟にこう語っている。

「いまにごらんよ、あんなろくでもない鹿鳴館が栄えるもんか。いか

に大きな社交殿堂といっても、国民のために何の役にたつというんだ。

なんでもかんでも、うわべばかりの毛唐の真似をしても、ほんとうの

西洋文化のよさを識ってはいないのだ。(中略)あの鹿鳴館でランチ

騒ぎをしている大半の連中は、テンデ、西欧の文明文化なんてものは

わかっていないじゃないか。僕が建てた『可否茶館』のほうが、どの

くらい世の中の人の憩いの場所になるかしれんよ」

(『珈琲 ものがたり』)

永慶の予見どおり、鹿鳴館は間もなく終焉を迎える。欧化政策を行い

ながら、不平等条約の改正交渉を進めていた井上馨であったが、領事

裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復を認める代わりに、外国人の内

地雑居と外国人判事任用を認めるという改正案が明らかになると、

政府内外から批判が相次いだ。

馨は本格的な改正までの一時的な案と考えていたのだが、国粋主義が

台頭しつつあるなか、押し通すことはできなかった。明治二十(一八

八七)年、馨は外務大臣を辞任。役目を終えた鹿鳴館は、宮内省に払

い下げられ、第二次世界大戦中の昭和一五(一九四〇)年に解体され

る。

一方、永慶の『可否茶館』も短命に終わった。玉突きもできれば、新

聞、雑誌、和漢洋書が好きなだけ読めるとあって、特に帝国大学生が

大勢集まり、サロンの様相を呈したものの、コーヒーを飲まずに遊ん

で帰るだけの学生も少なからずおり、経営が行きづまった。

永慶は起死回生の策として相場に手を出すも失敗。父永寧名義の土地

を担保に借金を重ね、結局返せなくなってしまった。自殺を考えたが

思いとどまり、「西村鶴吉」という偽名を使い、アメリカへ密航する。

シアトルで皿洗いなどをしながら生活していたが、明治二八(一八九

五)年に三十七歳で客死した。『可否茶館』の開業から七年後、密航

から三年後のことであった。(65〜67p)

  

長く引用しました。興味深いことがいろいろありました。

まずは鹿鳴館。

明治16年スタートの鹿鳴館。

目的は不平等条約を改正すること。

しかし明治20年には改正に失敗。

明治23年には華族会館となって

当初の目的は失われます。

確かに思っていたより短命であったと思います。

  

鄭永慶(ていえいけい)

わかりやすい動画で勉強をしました。


YouTube: 【風薫る】島田健次郎(佐野晶哉)のモデルは鄭永慶?木下尚江?シマケンの正体とは #風薫る #朝ドラ #ドラマ考察

この動画は、ドラマ「風、薫る」に登場している島田健次郎の

モデルは、2人の人物、鄭永慶と木下尚江だと考える動画です。

動画の前半が鄭永慶の説明でした。

スクリーンショットを利用します。

Img_8161

鄭永慶の写真です。

  

Img_8162

Img_8163

大関和に英語の勉強を勧めた人物のようです。

そのおかげで、和は大山捨松と縁ができ、看護婦への道に進みます。

  

Img_8164

4月13日は「喫茶店の日」となっています。

  

Img_8165

Img_8166

Img_8167

Img_8168

しかし夢破れ、4年で「可否茶館」は閉店します。

不幸が続いた鄭永慶は、自殺を考えます。

Img_8169

しかし旧知の人物の説得を受け、自殺を思いとどまり、

アメリカに出国します。

Img_8170

シアトルはスターバックス発祥の地。

Img_8171

このような人物でした。

  

退職してから、喫茶店を利用する機会が増えました。

喫茶店を始めた人物として鄭永慶は覚えておきたいなと思いました。

最近の写真

  • Img_9795
  • Img_9794
  • Img_9792
  • Img_8338
  • Img_9761
  • Img_9745
  • Img_8337
  • Img_9744
  • Img_9743
  • Img_9724
  • Img_9723
  • Img_9800

楽餓鬼

今日はにゃんの日

いま ここ 浜松

がん治療で悩むあなたに贈る言葉