本「黒三ダムと朝鮮人労働者」① 「日電歩道」「水平歩道」「下ノ廊下」
今日は令和6年2月16日。
黒部第三の勉強をしていて、一度整理しておかないといけないと
感じた用語があります。
「日電歩道」「水平歩道」「下ノ廊下」です。
「高熱隧道」(吉村昭著/新潮文庫)には、この地図が載っていました。
部分をアップします。
この地図によると、日電歩道は欅平〜阿曽原になっています。
この動画だと、違っていました。
YouTube: 【テント泊登山】断崖絶壁30kmの道、黒部峡谷の歴史を歩く|旧日電歩道-下ノ廊下-水平歩道
部分をアップします。
これによると、欅平〜仙人谷ダム間が水平歩道。
仙人ダム〜黒部(第四)ダム間が旧日電歩道になっています。
そして水平歩道と旧日電歩道を合わせたのが、
下ノ廊下と思われます。
日本電力(日電)が造ったので、日電歩道というと思いますが、
日電が造ったのは、水平歩道であって、
旧日電歩道は、戦後の作業なので、
もう日電は存在していなかったので、
日電歩道という名前はおかしいのではと思いました。
しかし!この本を読んで、理解できました。
「黒三ダムと朝鮮人労働者」(堀江節子著/桂書房)
水平歩道は日電が造ったものではありませんでした。
引用します。
1917年、タカジアスターゼの発見者として知られる高峰譲吉が、
アルミ精錬の電源を求めて黒部川の水力発電の可能性に注目して調査
に乗り出した。1919年にはアメリカのアルコ社と共同で東洋アル
ミナムを設立、富山湾に面する良港、高岡銅器の加工技術、水力発電
による電力、豊富な労働力を結合してアルミ産業を興すという壮大な
計画を立てた。1920年には欅平から上流へと水平歩道の開削を開
始、1921年には・・・(14〜15p)
水平歩道を造ったのは、東洋アルミナムでした。
ここにも同様に書いてありました。
富山で設立された東洋アルミナムが、多くの電気を必要とするアルミ
ニウム精錬のため水力発電用ダムを自前で建設することを計画し、そ
の調査を目的として1920年(大正9年)に開通させたものである。
日本電力が、黒部に関わったのは1923年なので、
水平歩道には関係していません。
つまり、「高熱隧道」の日電歩道は違うのです。
じゃあ、仙人谷ダムから黒部ダムの道はどうか。
これも、記述がありました。引用します。
黒部川電源開発を引き継いだ日電は、さっそく1923年9月に宇奈
月ー猫又間12キロの軌道の開削に着手、上流へと調査を進めた。さ
らに、「黒四」へのルート開発として日電歩道の開削に取り組み(1
929年完成)、翌1924年には・・・・(15〜16p)
日電は、黒三を造ると同時に、黒四も造る予定だったのです。
この本を読んだ後だと、このサイトの説明も理解できます。
「日電歩道」の名は、日本電力(日電)が水力発電の建設に備えた調
査を行うために開削したことから付けられた。1925年に着工し、19
29年に平(現在の黒部ダム西岸・平ノ小屋付近)まで開通した。黒部
川左岸断崖絶壁にわずかな隙間をうがつような形で建設され、当初は
最も狭いところで道幅が50センチメートル (cm) しかなく、岩壁から
太い針金を垂らして木をぶら下げ桟道代わりにしていた箇所もあった。
歩道上流部に黒部ダムが建設されるにあたってこれらの狭隘な箇所が
拡幅され、現在の道になった。
日電がすでに存在しない現在では「旧日電歩道」とも呼ばれる。また
水平歩道の部分に当たる区間も含めた約30 kmの道のりを指して「日
電歩道」と総称する場合もある。ただし水平歩道の開削は、日電が黒
部川の水利権を得る以前に東洋アルミナムの手で行われており、日電
が開設したという意味では「日電歩道」と呼べるのは仙人谷より上流
側である。また、対岸の右岸側には、古河合名会社(現在の古河機械
金属)や東信電力も調査用の道を開いていたが、現在では使われてい
ない。
整理できてきました。
次は「下ノ廊下」
これについては、次のサイトの記述が参考になりました。
チューリップテレビ 5年前には10日余りで5件の死亡事故も…北アルプスの秘境・黒部峡谷の下ノ廊下でまた滑落 登山者を魅了する“美しさ”と“険しさ”(2023年10月18日)
こう書いてありました。
黒部峡谷は、黒部湖から上流を「上ノ廊下」、下流を「下ノ廊下」と
呼ばれています。
ちゃんと「上ノ廊下」もありました。
黒部峡谷は奥が深いのです。
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