「38年」は、日航機事故からの年月でもありました
今日は令和5年11月7日。
昨日、青山透子さんからのメルマガが届いていました。
その記事を読んで、
6日の阪神の日本一は38年ぶりのことですが、
実はこれは日航123便墜落事件の年数と一致することを
あらためて知りました。
墜落した日航123便には、当時阪神タイガース社長だった
中埜肇氏が登場しており、命を落としていました。
阪神が初めての日本一をつかむ2ヶ月前のことでした。
青山さんのサイトには、その年に日本航空大阪支店の熱烈な
阪神ファンの職員による応援団「日航猛虎会」が作った
ハッピの写真があります。
優勝を確信した日航猛虎会が作成したもの。
ひょんなことで手に入れた青山さんが、ずっと保管しておいて
今回写真を公開しました。
※青山透子公式サイト 日航123便墜落の真相 祝38年目の優勝 阪神タイガース 幻のハッピ「日航猛虎号」
ハッピにある「六十年優勝記念」の「六十年」は、
昭和60年の意味です。
ここを見ると、前年に社長に就任した中埜氏は、
野球についてあまり詳しくありませんでした。
でも社長になったのをきっかけに、勉強します。
元々野球のことはあまり詳しくなかったが、中埜は「タイガース(阪
神)のことを知っておくのも本社役員としての任務」と考えており、
球団社長就任後は家に帰れば必ず全テレビ局のスポーツニュースを視
聴して、翌朝は全てのスポーツ新聞に目を通すなどして野球について
猛勉強した。ホーム球場、ビジター球場を問わず頻繁に訪れ、かばん
の中には常に応援歌『六甲おろし』の歌詞コピーを入れて「みんなに
歌ってもらおう」と周囲の人に配布したりしていた。
球団内の事に関しては基本的に球団代表の岡崎義人に任せ、中埜自ら
は管理者に徹していた。また、ビジター球場(もしくは地方主催球場)
にも自ら訪れて試合終了後に選手一人一人を労っていた。
優勝に立ち会えずの死。
無念だったでしょう。
38年。
阪神の2度目の日本一にかかった期間ですが、
日航機事故からこんなに長く年月が経ってしまったということです。
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