本「日本国紀 下」/奥羽越列藩同盟討伐 江戸から東京に 廃藩置県から130年
今日は令和5年11月3日。
前記事に引き続いて、
「日本国紀 下」(百田尚樹著/幻冬舎文庫)
から引用していきます。
明治政府による奥羽越列藩同盟討伐は、一分の正義もないものでし
た。 徹底抗戦を宣言した相手ならともかく、恭順の意を示した相手
を討伐する理由などありません。
敢えていえば、長州による報復の私闘ともいえるものでした。その
証拠に「禁門の変」で恨みを抱いていた会津藩に対しては、藩士ら
を不毛の地であった青森の斗南に移封するなど、非常に過酷な処罰
を与えています。(薩摩藩の西郷隆盛などはむしろ会津藩に同情的
だった)
(65p)
「一分の正義もないもの」と言い切っています。
そうだよね。死ななくていい人たちがたくさん死んだ戦いでしたよね。
明治政府は戊辰戦争を戦いながら、一方で様々な改革を急速に進めて
いました。まず明治元年(一八六八)七月十七日、明治天皇は「江戸ヲ
称シテ東京ト為スノ詔書」を発し、江戸は東京となりました。
東京という名前を誰が決めたのかはわかりませんが、この改称は徳川
政権の名残をすべて消し去ろうという意図がうかがえます。町や土地
の名前には謂れがあります。それをわざわざ消し去り、別称に改める
という行為を、私は良しとしません。
江戸は十七世紀の頃からロンドンやパリに匹敵する世界的な都市であ
ったのに、現在、この由緒ある名前が使われていないことは残念とい
うほかありません。
(68〜69p)
そうか、江戸が東京になったのは、深く考えていませんでしたが、
徳川政権の名残を消し去ろうという魂胆があったかも知れないのですね。
新しい視点です。
明治二一年(一八八八)の最後の廃藩置県の実施以後、百三十年以上日
本の行政単位はほぼ変わっていないのです。この百三十年の間に、交
通網や通信手段、および人々の生活スタイルは激変しました。百三十
年前は、ほとんどの人の生活範囲は半径数キロ以内でしたが、現在は
県をまたいで行動することは当たり前の日常となっています。道路、
水道、電気、あるいはその他の行政も、もはや一県だけで行なってい
くのは合理的か否か疑問が生じているにもかかわらず、百三十年その
ままというのも、変化を好まない日本的なやり方のようにも見えます。
(74p)
私も時々考えます。
廃藩置県から130年以上。
このまま都道府県は変わらずに行くのかなって。
どんなものにも未来永劫はないと思うので、
何かのきっかけで変わるんだろうなあ。
私が生きているうちは、地元愛知県は、愛知県のままかな。
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