「定本納棺夫日記」② 生死の生と死の割合
今日は令和4年9月2日。
前記事に引き続き、
「定本納棺夫日記」(青木新門著/桂書房)より。
しかしみぞれもその時その時の気温によって雪と雨の割合が変化す
るように、生死の生と死の割合もその時代背景によって左右されて
きた。たとえば戦乱に明け暮れた時代とか大飢饉や疫病が蔓延した
時代には、死の占める割合が多かった。そして死の占める割合が多
い時代では、死は多く語られ、時には美化される傾向にあり、今日
のように日常生活の中にも思想の中にも死が見当たらないような生
の時代には、死は隠蔽され、死は敗北であり悪であるとする傾向に
ある。
死は忌むべき悪としてとらえ、生に絶対の価値を置く今日の不幸は、
誰もが必ず死ぬという事実の前で、絶望的な矛盾に直面することで
ある。
他人の死に出遭っても、一時的に愛情の念が起きるだけで、日ごろ
自らの中に死を認知していないため、他者の死は他者の死であって、
他人の死は仏教でいう機縁とはなり得なくなっている。
たとえば「・・・・朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり
・・・・」と蓮如の『白骨の章』を読み上げても、ほとんどの人は
心に響かなくなっている。
(35p)
この文章も、ただ読んだだけで終えたくない文章です。
死が美化されると言えば、戦国時代や太平洋戦争では、
美化された死があったことを思い浮かべます。
今の時代には、とんと聞きません。
「仏教でいう機縁」とは?
ここを読んでみました。
この文章が大事か。
人間は一人では生きられない。そこで「これも何かの御縁です」、
「これを機縁に」と言い、人とお付き合いをしながら日々暮らして
いる。ただ一度のお付き合いもあり、何度も顔を合わせる場合もあ
る。人生において出会いの回数は必ずしも問題ではなく、僅かな値
遇であっても、それが縁となって開眼し、人生の方向が定まること
もある。
人の死に出合って、自分の死について考える機会に
なるといいということか。
自分の死は遠いものと考え、積極的に考えないようにするのが現状かな。
蓮如の言葉。
☝ ここには次のように書いてあります。
この世をわがもの顔に誇る若者の血色のよい顔も、たちまちに白骨
となって朽ち果てるの意で、生死の測り知れないこと、世の無常な
ことにいう。
そうなんだよな。
今日は腰痛はあるものの、死とは遠いと思っている自分も、
もしかしたら明日には生きていないかもしれない。
そんなことは考えたくないと思ってしまいます。
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