番画〈687〉:日米和親条約 非常に素晴らしい2国間交渉だった
今日は令和4年2月20日。
番画です。
〈687〉「歴史秘話ヒストリア 日本人ペリーと闘う
165年前の日米初交渉」(2019年5月22日放映)
〇以前紹介したCo.慶応さんの次の動画。
【日本史ラップ〜江戸時代ver.〜】Co.慶応&Junと徳川15代将軍を覚えよう!
日米和親条約については、日本にとって不利な条約だったと
紹介していた。
〇しかし、この番組では、対等な2国間交渉だったと説く。
〇久しぶりにこの短歌を見た。
泰平のねむりをさます
上喜撰(蒸気船)
たった四はいで夜も寝られず
〇この短歌とは違って、幕府は事前に準備をして冷静に対応した。
〇1853年 ペリーが1度目の来航
浦賀を通り過ぎた後に、バックして戻ってきた。
当時の人々は神業だと思った。
〇ペリーの要求は3つ
・漂流民の保護
・石炭や食料の提供 アメリカは太平洋航路を作ろうとしていた。
・貿易
〇ペリーは大西洋・喜望峰コースで日本にやってきたが石炭も食料も不足。
途中は帆船で航行していた。
蒸気を使ったのは、日本に到着する2日前。
〇当時の老中は阿部正弘。
鎖国派、開国派、一度開国してから鎖国をする消極派など
さまざまな意見があった。この議論は有意義であった。
シュミレーションになった。
〇ペリー艦隊には日本人が含まれていた。広島県出身の仙太郎。
サムパッチというあだ名があった。人気があった。
後に日本に戻る。お墓も日本にある。「三八君墓」とある。
〇2度目のペリー来航に備えて、いろいろな策を講じた。
台場を造る 長崎海軍伝習所の開設
〇誰をペリーと交渉させるか 林大学頭
交渉の様子が「墨夷応接録」に残る
〇2度目の来航 ペリーたちは横浜に上陸する。
〇贈り物交換 アメリカから機関車の模型
日本は力士に米200俵を運ばせた。
〇5.6か所の港を開校するように要望するペリー。
ひるまない林大学頭。
阿部正弘らの支持を得て2港(下田港函館港)とする。
〇いきなり貿易までいかなかった日米和親条約 ソフトランディング
〇ある教授がこう言っていた。
「これまで教科書とかで言われていたような、黒船に脅えて、ず
っと鎖国のぬるま湯につかっていた幕府が、全部を妥協したみた
いなことではなく、文明国同士のまっとうな外交交渉が行われて
両方ともちゃんと大人の態度で、大人の能力で交渉できた非常に
素晴らしい2国間交渉だった」
こうだったんだろうなと思う。
〇交渉後にペリーは交渉団を招いてパーティーを開いた。
とてもいい雰囲気だった模様。
〇日米和親条約に関しては、不利な条約ではなかったようである。
さあて、授業ではどうやって教えようか。
冷静に対応した日本を伝えたいが・・・
この番組の映像を効果的に使いたい。
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