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2020年2月17日 (月)

パラリンピック〈19〉 「パラアスリート」⑥ 社会が障害をつくり出している

今日は令和2年2月17日。

  

昨日の記事に続いて

パラアスリート」(山田清機著/PHP研究所)

より引用します。

  

【パラスイマー 一ノ瀬メイ いちのせ・めい】

  

(幼いころの一ノ瀬を知る)猪飼(聡)が言う。

「オリンピック選手の発掘がピラミッド型だとすれば、パラは

タワー型なんです。オリンピックの世界は、言葉は悪いですが、

放って置いても選手がわいてきます。そして、競争を勝ち抜い

てピラミッドの頂点に立った選手がオリンピックに出場する。

でも、パラの場合は個別にコーチがついてひとりひとり育て上

げなければなりません。パラの選手は勝手にわいてこないので

す。」

どういうことか。

「同じように片腕がない子をたくさん集めて、競争させること

はできないでしょう」

つまり、パラの世界では選手の発掘を競争原理にゆだねること

ができないのだ。

(中略)

パラの指導者や関係者と偶然に出会わない限りパラアスリート

が育ってくる環境がないのだとすれば、東京パラリンピックは

そうした環境を変える最後のチャンスかもしれない。

(110~111p)

   

東京パラリンピックを見て、どのような種目があるかが

世に知れわたることによって、

多くの障がい者がパラスポーツに取り組み、

裾野が広がってくれたらと思います。

大会が行われるようになれば、パラの指導者や関係者と

出会う可能性も増えるというものです。

  

  

2017ジャパンパラ水泳競技会。9月2日から3日にかけて

東京辰巳国際水泳場で開催されたこの大会に一ノ瀬メイが出場

するというので、観戦に行ったのだ。固定席のみで約4000

席あるスタンドは、3分の1ほど埋っていただろうか。プール

の両サイドにライフセーバーがひとりずつ立って、選手たちの

泳ぎに合わせて移動していく。万一の事態に備えているのだ。

誤解を恐れずに書くが、会場内は”多様な身体”によって溢れて

いた。片腕のない人、両腕のない人、片脚のない人、両脚のな

い人、足や手が途中で切断されている人、ブラインドの人、聾

唖の人、そして知的障がいをもつ人・・・・。

正直なところ、目のやり場に困った。どのような態度を取れば

いいのか戸惑った。同行した編集者が呟いた。

「ビールを飲みながら観戦する雰囲気ではないですね」

リオとロンドンのパラリンピック会場では、ビール片手に歓声

を送る観客が多かったのだが、慣れないからなのか、日本人だ

からなのか、神妙に観戦しなければならないという意識に囚わ

れて、心も体もぎこちなくなってしまう。

(114~115p)  

  

東京パラリンピックでの観客がどのように応援するかは注目です。

オリンピックのように、ビール片手に歓声を送れた方がいいですよね。

日本人は、もっと障がいに慣れなくてはいけないのだろう。

ふだんから見慣れていて、一緒に過ごし、障がいに目がいくのではなく、

その人全体を見るようにしていかないといけないのでしょう。

  

  

メイさんのお母さんトシ美さんの言葉を引用します。

 

「私はイギリスで、障がいにおもにふたつのモデルがあること

を知りました。個人モデルと社会モデルです。個人モデルはそ

の人の障害の問題を個人的な能力の問題だとする考え方です。

(中略)社会モデルは、イギリスではよく知られるようになっ

てきた考え方で、障害を生むのは個人の機能的な問題ではなく、

社会が障害をつくり出しているのだという考え方です」

(120p)

  

難しい内容です。

一ノ瀬メイさんは小学生の時に次のような体験をしている。

右腕のないメイさんは、本格的な競泳の練習を始めようと、

スイミングスクールへの参加を申し込みました。

メイさんは、片腕がなくても、自分のことは自分でできるし、

他の子と同じように泳ぐことができるのに、

門前払いを食らわせられます。

 

十分に泳ぐ能力のある自分が、そのスイミングスクール(社会)

によって障がい者にされたのだ・・

(120p)

 

 

難しいですが、もう少しトシ美さんの話を引用します。

  

「個人モデルはメディカルモデルともいうんですが、障がいを

医療の対象と考える。悪いのは障がいをもっている人であり、

悪い部分を治せばいいと。一方の社会モデルは障がい者本人に

原因を求めず、本人はそのままでOK。その人が障がい者であ

るのは社会に問題があるからであって、社会が変われば障がい

者ではなくなると考えるんです。」

(121p)

 

「大切なのは、健常者と障がい者の混じり具合だと思いますよ。

日本の障がい者はマージナル(周辺的)な存在ですが、他の国

では一緒に生きている感じがします。障がい者を特別な目で見

ない。日本は特別支援学校をつくって分けてしまったでしょう。

(後略)」

(122p)   

  

  

日本の教育は、ある程度の教育水準にまで全員を高めようとします。

それも一斉授業の形式で行うのが主流です。

そこで「社会」が出てきて、その教育に知的に、あるいは身体的に

ついていけない子どもを障がい者としてくくり、

特別支援学校や特別支援学級が生まれました。

  

「日本の学校はみんなに同じことをさせようとして、個別性に

対応しませんね。第二次産業が中心の時代は誰もが同じである

ことに意味があったかもしれませんが、多様性尊重原則が大切

なこの時代に、日本の教育は産業分野ばかりでなく、障がいの

分野にも影を落としているのです。」

(123p)

  

  

パラリンピックが東京で行われることで、

障がい者について考えるいい機会になると思います。

特別支援学級の担任が目指すことは、

目の前にいる生徒たちが、社会に入っていけるように

手助けしてあげることと、

生徒たちが入っていきやすい社会を作っていくことだと思います。

それをまずは学校レベルで行う。

 


もう教育は多様性尊重の時代になってきたのです。

新しい教育に変わっていかなくては。

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