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2013年1月3日

2013年1月 3日 (木)

今晩は流星そしてブロンコビリー

 

今日は1月3日。

 

今晩は流れ星が見られる可能性アリ。

終業式の日にプリントで子どもたちには紹介しました。

忘れないで見ようとしているかな。

しぶんぎ座流星群ですよう。

8月のペルセウス座流星群、12月のふたご座流星群とともに、

三大流星群の一つに数えられています。

見頃は午後10時頃。もうすぐです。

夜明けまで見られる可能性アリ。明るすぎる月がネック。

 

 

今晩は家族でブロンコビリーへ。

名古屋が発祥のステーキレストランチェーンです。

最近、映画「ヤングガン2」を久々に見たので、

「ビリー」と聞くと、ビリー・ザ・キッドのことを連想しました。

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調べてみました。

ブロンコビリー」は、

アメリカ西部時代の暴れ馬ブロンコとならず者のビリーの名前を合わせたものだそうです。

ならず者のビリーと言ったら、ビリー・ザ・キッドでしょう。

予想は当たりました。

東京には、「ビリー・ザ・キッド」という名前のステーキ・ハンバーグ店があるようです。

ステーキハウス ビリー・ザ・キッド

 

ビリー・ザ・キッドは映画でもしぶとかったけど、

現実でもしぶとい。

 

 

 

 

「北条義時」より・・・六波羅探題の場所・義時の死

 

今日は1月3日。

 

「3度目の正直」「2度あることは3度ある」という2つの言葉が頭にあります。

六波羅探題と義時の死について書いた原稿が2回消えてしまいました。

ショック。でもくじけずに再びうとうと思います。

すぐにうつと、まだ内容が記憶に残っているし、

案外最初にうったよりもいい文章になることが多いです。

さあ、最後までうって、投稿まで持ち込むぞ。

 

前投稿に続いて、半世紀前に出版された「北条義時」(安田元久著/吉川弘文館)より。

 

承久の乱の後、幕府政治の新しい展開がはじまり、

また幕府権力の伸長が見られるが、その具体的表現として、西国に対する行政機関の設置と、

地頭設置範囲の拡大とがあげられる。

前者は、いわゆる六波羅探題の創設であり、

後者は新補地頭の補任である。

京都の治安が恢復(かいふく)するに従って、幕府軍は漸次帰東した。

しかし幕府は、戦後の占領行政にあたっていた南北六波羅の時房・泰時をそのまま京都に駐留させ、

これまでの京都守護に代って、

朝廷の監視と京都の治安警察のことに当らせることとした。

これが六波羅府のおこりであり、六波羅の首脳者は探題と称されるようになった。(222~224p)

 

六波羅探題の起こりは承久の乱でした。

その終わりは、足利尊氏らに滅ぼされた1333年です。

鎌倉時代を象徴する役所だったわけです。

 

六波羅探題があったのは現在のどこか?

北方と南方の2つの役所があったことを知ったのは、この本を読んで。

北方はどこに、南方はどこに?

ヒントはこのサイト。

e-kyoto.net 北条時宗「京紀行」 六波羅北方南方地図

Upload_20100628140845

 

方広寺や豊国神社のような行ったことがある場所も、六波羅に入っていました。

かつては平家の人たちが住んでいた地域だそうです。

まだ勉強不足でわかっていないのは、

六波羅という地名があって、その北側を「六波羅北方」南側を「六波羅南方」というのか?

それぞれの場所に、六波羅探題府が置かれたということか?

それともこの広大な場所が六波羅探題府だったのか?

この辺りがあいまいですが、今回はこの程度。また調べます。

 

北条時房は、北条義時の異母弟。北条泰時は、北条義時の長男。

 

 

 

義時の最期。

義時が亡くなったのは、承久の乱があった3年後の元仁元年(1224年)6月13日。

急死でした。

引用します。

吾妻鏡』『百鍊抄』によれば、その死因は脚気衝心(かっけしょうしん)であったと思われる。

従ってその死は、全く突如として襲ったもののようである。

こうして武家政治の成立期を生きて来た政治家北条義時は、

執権政治を確立するための最後の仕上げをすることなく62年の生涯を終った

しかし彼の遺志は、あとをついで執権となった嫡子泰時によってうけつがれ、

やがて見事に開花するのである。(240~241p)

 

脚気は、ビタミンB1の欠乏により起こる病気。

脚気衝心は、辞典には次のように書いてありました。

「脚気に伴う心臓機能の不全。呼吸困難となり、苦悶(くもん)して死に至ることが多い」

脚気は、最近聞かない病気です。

しかし、日露戦争では、戦死者を大きく上回る脚気での死者を出したと聞いたことがあります。

脚気での死者が減ったのは1950年代後半だそうです。

つまりこの本が書かれた頃には、もっと身近な病気だったのです。

だから著者は、当然のように病名を書いていて、特別に説明をしていません。

50年前に書かれた本ならではの箇所だと思いました。

義時は、承久の乱で命を消耗したのではないでしょうか。

 

 

北条義時が悪者扱いされていた明治時代の方が、

今よりも義時が有名だったと思います。

今はその時に比べて、義時に対する関心が低いと思います。

私も50歳を越えて、関心を持ちました。

そのスタートでこの本が読めて勉強になりました。

 

さあ投稿しよう。

3度目の正直ですね。今度はOKです。

 

 

「北条義時」より・・・調伏・天皇上皇に逆らうこと

 

今日は1月3日。

 

1日~2日は奥さんの実家でゆっくりしました。

1日はドラマ「御鑓拝借」「相棒」を見て、

2日は「箱根駅伝」を見ました。

日体大が往路優勝。じっくり見ました。

なのに、1年経つと「どこが優勝したっけ?」となります。

どういうこと?もう少し記憶さん、しっかりしてよ。

 

 

昨日に引き続き、半世紀前に出版された「北条義時」(安田元久著/吉川弘文館)より。

 

後鳥羽上皇は、公家社会で最も頼みとした神仏の加護を重視して、

延暦寺・東寺・仁和寺などに命じて、

五月の初めから義時調伏(ちょうぶく)の修法を秘密裏に行わせた。

調伏とは仏の力に頼って怨敵を降伏させたり、

あるいは人を呪詛(じゅそ)して殺すことであって、

そのための祈祷が行われたわけである。

近代人の意識からすれば、呪詛とか調伏とかはおよそ無意味かも知れない。

しかし中世の人々にとっては、公家といわず武士といわず、

また一般の農民・庶民に至るまで、誰しもが、これを信じ、

仏の力によって絶大な効果をあらわすものと考えていた。(190p)

 

これも興味深い話です。調伏呪詛の力が信じられていた時代もあった。

鎌倉時代がそうだった。

そういう前提は、歴史を見ていくときに大事だと思います。

 

 

承久の乱の直前の話。

 

軍事の上からみれば義時の勝算はまず間違いないであろう。

しかしここに一つの、しかも最も重大な障(しょうがい)があった。

それは「一天万乗の君」に向って攻撃をしかけることの不利である。

中世の武士たちの意識の中にも、天皇や上皇に向って弓を引くことを、

道徳的な悪であるとする傾向は強く、また決定的であった。(192p)

 

承久の乱は、今考える以上に、武士にとって勇気のいる戦いだったようです。

 

「障害」ではなくて「障」でした。

「碍」という漢字に馴染みなし。

「碍子(がいし)」は「電柱や鉄塔に取り付ける絶縁体の器具」のこと。

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AH!電柱好き少年ゴロンディーナー

会社「日本碍子」も1986年に「日本ガイシ」に社名変更しています。

なかなか出会えない漢字です。

 

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