「天地明察」より・・・保科正之
今日は1月6日。
前投稿に続いて、11月に読破した「天地明察」(冲方丁著/角川書店)より。
保科正之も「天地明察」では重要な役をしています。
保科正之は、徳川家光の異母弟。
3代将軍家光と4代将軍家綱を補佐した人。
春海の暦作りにも援助をします。
保科正之に関する記述を、たくさん引用します。
”凶作、飢饉、飢餓”
調べれば調べるほど、飢苦餓亡が領民を暴発せしめる第一原因なのだと確信された。
そしてそこで正之の天性とも言える”疑問する才能”が大いに発揮されることとなった。
”なぜそもそも凶作になると飢餓となって人は飢える?”
およそどの大名も疑問にすら思わなかったような、
根源的な問いを抱いたのである。
それは同時に、戦国から泰平へと世が移り変わる上での思想の変転そのものだった。
覇道に奔走する者たちにとって、災害援助や飢餓救済など、ある程度美談である。
しかし結局は、”贅沢”に過ぎない。
凶作は天候によってもたらされ、天候は天意であった。
その天意の結果、地に飢民が生ずるというのは、人の身でどうこうできるものではなく。
”仕方なく慎む”
べき事柄であった。いたずらに騒いで神に祈ったり対処したりすれば出費がかさみ、
領国を疲弊させる。そのため飢饉の折には、領主は自己の人徳を慎み、
領民は彼らの道徳を慎む、良い機会とすべきである。
そういう発想こそ常識だったのである。(276~277p)
行いが悪ければ、天候が悪くなる。
そんな発想があったのでしょうか。
今なら「そんなことはない」と言えます。
保科正之は、当時の常識を覆していきます。
むしろ民が飢えるときこそ治世に都合が良く、
みなに質素倹約の貴さを教える好機である、という常識を、
正之は根こそぎ否定した。
そしてただ否定するだけでなく、
”凶作において重税を課し、領民を疲弊させるばかりでなく
飢えに陥らせるのは、慎みでも質素倹約でもなく。
ただの無為無策である”と断定した。さらには、
”凶作において飢饉となるのは蓄えがないからである”
というきわめて単純な解答を出し、
”なぜそもそも蓄えがない?”となおも疑問を続けた。
”民のために蓄える方法を為政者たちが創出してこなかったからである”
と過去の治世を欠点を喝破(かっぱ)し、
”凶作と飢饉は天意に左右されるゆえ、仕方なしとすれども、
飢饉によって飢餓を生み、あまつさえ一揆叛乱を生じさせるのは、君主の名折れである”
という結論に達したのである。
これこそ正之という個人が到達した戦国の終焉、泰平の真の始まりたる発想の転機となった。(227~278p)
島原の乱が、戦国の世から泰平の世の転換期だと、
テレビの番組で聞いた覚えがあります。
その大きな発想の転換にかかわったのが、保科正之だったんだと思いました。
もう少し続きを引用します。
正之はまず、将軍とは、武家とは、武士とは何であるか、という問いに、
”民の生活の安全確保をはかる存在”
と答えを定めている。
戦国の世においては、侵略阻止、領土拡大、領内治安こそ、
何よりの安定確保であろう。
では、泰平の世におけるそれは如何に、という問いに、
”民の生活向上”と大目標をさだめたのである。(中略)
その政策が、ことごとく、戦国の常識を葬っていったことにあった。(278p)
江戸の生活用水を確保するために、玉川上水の開削をしました。
明暦の大火で、江戸が焼けた時は、備蓄米を放出しました。
火災で焼けた江戸城天守閣の再建をストップさせました、などなど。
この人が、教科書に登場してこなかった理由として、
死ぬ前に、正之が国策に関わった記述のある文書を全て処分させたのが大きいのかな。
彼のやったことを伝える資料が少なかったことが予想されます。
名誉も金もいらない、江戸時代の初期にすごい人がいたんだと知りました。
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