細切れに進めていたことが終了/「手紙」「自問清掃」
今日は1月30日。
昨日、細切れに見てきた映画「手紙」(2006年)をやっと最後まで見ることができました。
※見始めたきっかけはこの投稿に
細切れに見たにもかかわらず、
ラストの刑務所での慰安漫才の場面で泣けました。
弟の漫才のとっさのセリフと
兄の手を合わせ拝むシーン。
積み重なってきた映像を集約するようなシーンでした。
細切れに読んできた本も読破しました。
ちょっと前の投稿でも書いた「魔法の掃除 13カ月」(平田治著/三五館)です。
この本も勉強になりました。
担当している学年では、「がまん清掃」のレベルまで来つつあります。
他学年の先生にも認められるくらいになりました。
1年前に比べたらすごい進歩です。
本にはこんな記述があります。
「がまん清掃」
がまんとやる気という意志力を目標にする段階。
人の邪魔をしないで、どれだけがまんできるか挑戦します。
自分自身を試す時間です。
友だちに話しかけないで黙ることを、
あえて自分に課してみるのです。
がまん強い意志力を鍛えることはもちろんですが、
人に迷惑をかけないがまん強さ、
つまり「自由」の真意を体得させることもねらいます。
自由とは他人の迷惑を顧みない勝手気ままな放縦ではないのだということを、
掃除という活動を通して体得させ、
自律心を養うためです。(34-35p)
しゃべって人に迷惑をかけそうだったら休む。
そんな手段を自問清掃はとります。
そして自分の中にやる気を育てることができたら、
また掃除に取り組むのだと自分は理解しています。
それでは掃除以外でもこの考え方なのでしょうか。
平田先生は本の中で答えてくれています。
一方、授業では、それがどんなに自由な空気に満たされていたとしても、
勉強しなくてもよい自由など認められていません。
私も、「自問清掃」の時間以外には、
子どもに自由を与える必要はないとまで考えています。
授業にしても行事にしても、「やる・やらない」を
子どもに決めさせるようなことはしません。
しかしだからといって、
自由について学ばせる必要はないというのではありません。
自由は与える必要はないが、
自由について学ばせる必要があるというのは、
いささか矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、
それはちがいます。(177-178p)
平田先生は、授業で「自由」について子どもたちに教えると書いています。
しかし理屈で学ぶだけであって、体験的に学んでいないと主張しています。
だから自由をまちがえる子どもやさらには大人がいるというのです。
こんな文があります。
机上の学びだけでは、自由をいうものを自分勝手や自由奔放と
取り違えたままで社会に出ていってしまいます。
そして、「何やったって個人の自由だ」と主張する大人だらけになってしまう。
道徳心を養うには、
なんとしても実践の場をくぐらせることが絶対条件なのです。(181p)
その場が「掃除の場」なのです。
今までの「掃除の場」のイメージを変える必要を私は感じました。
まだ多くの教師が持っているイメージを変えるべきでしょう。
今目の前にしている子どもたちの変化を見てそう思います。
次の引用文が、今回読んで一番印象に残ったところと言えます。
こうして掃除をいう場を、進度や成果を問わないものに仕立て直し、
自由について体験的に学べる実践の場へと展開したのが、
「自問清掃」です。
そこでは、自分と向き合い自問する心磨きが最優先されます。
どこをどれだけきれいにしたかという進度や成果は、
直接の目標ではなくなります。(181-182p)
学校生活の中で、掃除の場は貴重な時間なのです。
子どもたちが自由について実践し、
自分でやる気を育てることができる時間です。
教師が待てる時間です。
今の私の2大関心事は「学び合い」とこの「自問清掃」です。
実践しながら勉強中。
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